亡念のザムド 第26話(最終回)「大きな石と少女」&シリーズ感想

困難な世界の中で力強く生きる人々の姿に、大きな勇気と希望を託して描いた最終回。



前回の記事で、フレイザー『金枝篇』に見られる王殺しのことを取り上げて考察してみたが、やはり今作は、ヒルケン皇帝という偶像を作り上げることで、世界の終末と再生を描く物語であったようだ。もちろんそれは作りもののおとぎ話でしかないのだけれど、そこに込めようとした作り手のメッセージは見事に描き切って見せたように思う。大いなる虚無であり、人々の苦痛と絶望の集合体であるヒルケン。それに対して、考えて生きることを選択してきたアキユキとナキアミが、それぞれに覚悟と信念を持って向き合って見せた。世界に光をもたらすのはどこまで行っても最終的には一人一人の人間であり、それも、真摯に自らの生を見つめ、立ち向かっていった者のみであるということを、この壮大なからくりを通して描いていたのだと思う。


1000年という数字は極めて象徴的である。どれほど理想を並べ立てても、しょせん人は光と闇の双方を常に持ち合わせており、主人公たちが奇跡のような献身で世界を救って見せたところで、そこには千年という限定された救いしか残されていない。そういう意味で千年という数字を提示していると私は受け取ったのだが、これは仏教の末法思想に着想を得た考え方である。逆に、キリスト教でいう千年王国をモチーフとしたものであるかもしれず、天女ナキアミが千年後に目覚めるであろうというのを人間世界の救いとして受け取るべきかもしれない。


だが重要なのは作中で語られている世界のからくりではない。そうではなく、人の世界を良くするのも悪くするのも、すべては人間次第であるということだ。代々ヒルケン皇帝が生み出されてきたというのは、それまでの歴史で、人がその悪しき宿命を克服できなかったことを直接的に言及している設定だと思うし、今回、サンノオバの遺志を継いだナキアミが、自らの身を犠牲にして胎動窟を閉じたのは、このようなからくりを断ち切ることで、人々が真の意味で生きることを望んだということだろう。






ザムドは、導き手であるという。何を導くのかと言えば、作中の説明ではヒルコという(視聴者にとっては)得体のしれないものを導くという話であった。ではヒルコとは何なのか。これは見るものが推測するしかないのだが、私は、ヒルコとは”問う者”であると考えている。「生きたい」と願い、そのために考え抜こうとする者にとって、ヒルコは大きな力となる。だが、生きるとは何かを考えようとしない者を、ヒルコは乗っ取り、暴走して、最後は石になってしまう。人よ、おまえはどう生きるのか。それを積極的に問い、常に答えを要求しているのが、ヒルコという存在だったのではないか。


”生きる”とは何か。それは、ただ息をし、食べ、眠ることではない。生物学的な意味での生を、ヒルコは問うてはいない。そうではなく、人としての生、つまり、動物でもなく神でもない、自分で自分がナニモノか良く分かっていない存在である人が、どう生きようとするのか、何を目指して生きるのか、それを問うのがヒルコであり、それを導くのがザムドである。


その意味で、ヒルケン皇帝がヒルコを媒体として育てられたというのは戦慄に値する設定だ。人の生みだした虚無が、生とは何かを問い続けるヒルコと共にあるとき、その導きだす答えは何か。世界を闇で覆い、人々を石に変える黒い涙雨を降らせる異形の怪物の存在は、ただアクションを盛り上げるための装置というよりも、作品の本質を貫くテーマと深い関わりを持ったものだと捉えたほうが的確だろう。そして、その皇帝に挑んだ二人のザムド。一人は、自身の境遇を恨み、嫉妬の感情をエネルギーと変えて、復讐に燃えて立ち向かう。だが、なんとちっぽけな苦しみであることかと、一蹴されてしまった。クジレイカは、真に生きようとしていなかった。だから導き手にはなり得なかった。そしてもう一人のザムド、完成された者として使命を帯びて皇帝と対峙するアキユキは、自らの名を虚無に与えた。ここの解釈は難解きわまる問題だが、人の心の闇を取り除くきっかけとして、他者の慈悲と同苦が及ぼす影響力の大きさに考えを巡らすことが、このシーンに込められたものを体感的に理解する一助となるだろう。


ただ一点残念だったのが、物語終盤、大巡礼やヒルケン皇帝の正体、そしてザムドの意味等の重要な設定が解説される場面で、具体的な話としてよく意味が掴めなかったということ、そしてアキユキの思想的葛藤があまり描かれなかったということが、物語の本質を伝わりにくくしている。アキユキがたくさんの困難や悲しみを乗り越えて成長していく姿を描くという点に関しては素晴らしい描写をしてきただけに、直感的な感情ではなくもっと根本的な部分、彼の魂の問題として、彼がどう生きようと願い、それがなぜヒルケン皇帝に名を与えるという行為につながったのか、ここをもっと明確なカタチで描いてくれないと、肝心の部分が視聴者に伝わらないまま終わりを迎えることになってしまう。一人の青年が何を思い、感じ、考えたのか。その思想的な面についての描写は、あえてはぐらかす必要はなかったはずである。





過去の記事で、ときおり、今作を漫画版「風の谷のナウシカ」と比較することがあった。それは、今作の作風が「ナウシカ」の影響を大きく受けているようだと感じたからだが、見終わった今となっては、今作は「ナウシカ」の影響下にあったと言うにとどまらず、むしろオリジナル版「ナウシカ」を作る作業であったようにさえ思える。それは世界観やいくつかのシーンでの類似点を挙げることも出来るけれども、それ以上に、ある宿命的な世界のからくりを前に、青年がどう考え行動するかを描く中で、生きることの本質を探ろうとする作品テーマからこそ、よく見てとれると思う。もちろん、単純な「ナウシカ」の焼き直しになっているなどと思っているわけではなく、「ナウシカ」という作品がひとつのきっかけであった可能性を指摘するのがせいぜいであって、「ザムド」は「ザムド」として極めて高い品質のオリジナリティを追求できている。その上で、近いテーマ性を持った作品として、漫画版「ナウシカ」に匹敵しうる作品に仕上げていることを、大変高く評価するものである。


今作で扱っていたようなテーマを持った作品は、作り手の深い思索と強い熱意がなければ制作できようはずがなく、今作における試みはアニメ作品として大変貴重なものである。今後、これと同じか、それ以上に深い思索のもとに制作された文学的な作品が生み出されていくことを期待したくなってくる。アニメーションとしての大きな可能性を予感させる作品であった。


もちろん、あまり視聴者受けのしそうに無いテーマを根幹に据えるにあたって、表面的にはファンタジーとしてしっかり楽しめるよう、娯楽性という点でも最高レベルのクオリティを追求していたのが、作品として成立しうる最大の要因だったと思う。作画、演出、脚本と、あらゆる要素がすべて高い次元で融合していた。またドラマの作り方においても、難解な作品テーマを彩るカタチで、友情と恋とが織りなす大変魅力的な人間ドラマや、興奮必至のアクションシーンを盛り込んだ政治・戦争ドラマが描かれていて、難しいことは脇に置いておいて、純粋に「最高に面白い」と言いきれるだけの作品に仕上がっている、素晴らしいエンターテイメントだった。



間違いなく、近年においてもっとも優れた作品のひとつとして、記憶に焼き付けておくべき作品だ。



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