HEROMAN 第26話(最終回)「フェイス」
続くんかいっ!?www
・最終回感想
素晴らしかった!こんな見事な最終回を飾るとはね。「ヒーローとは何か」。そんな、いまどき流行りっこないテーマを掲げながら全26話を走破してきた今作だが、ここまで見事に、そのテーマを全力で描き切り語り切ったことに、まず最大限の賛辞を贈りたい!
実質的には、第22話「メモリーズ」と今回との2話分で、そのテーマを表現するという構図だった。22話が素晴らしい出来で、しかも作品テーマにぐっと踏みこんで見せてくれた回だったことが、きちんと下地として活用されてこの最終話に帰結していた。そしてその2話分のエピソードを何重にも支え補完する意味が、他の全話数に込められていたと言える。各話ごとの出来映えにはムラがあったが、全体を通じてひとつの堅固な軸が築かれていたために、一個の作品としてどっかと立ち上がっていたし、十二分の説得性を持って作品テーマを訴えることができていた。まるで、足腰の強靭なヒーローマンの姿そのものを連想させる腰の据わった安定感で、抜群にパワフルな作品に仕上がっていた。
そしてそうした全体像を見据えた作劇だからこそ、クライマックスとして用意された今回のエピソードの迫力とメッセージ性とが、最終回クオリティの超絶作画と絶妙なシンクロを果たす見事なアニメーションに昇華されていた。ただ良い作画を見せるだけでも最終回っぽさは出るし、ゴゴールを派手にぶちのめして平和を勝ち取るのが今回のお話だと思ってもいたから、まさかこんなに、作品を貫くテーマ性を描くためのドラマであり映像表現であるところの一個の作品として結実されるとは、思っても見なかった。あまりに鮮やか過ぎて、視聴後は完全に言葉を失い、涙さえ出てきた。
・真のヒーローとは。今作に込められたメッセージ
今回はとくに、第22話でほのめかされていた「真のヒーロー」像が、改めて、それも女性視点から強く訴えかけられたのが素晴らしかった。
今回セリフで語られた作品テーマは、最終回だからという理由で唐突に持ち出されたものではなく、過去の話数(22話だけでなく)ですでに何度も描写されてきたものであって、今回はそれを、最後のひと押しとしてセリフに具現化したものに他ならない。だから、映像的観点で演出やキャラの演技が素晴らしかったからという理由だけではなく、シリーズを通じての作劇の効果も大いに発揮されていたからこそ、これが本当のヒーローだ!という作り手の訴えかけが計り知れない迫真性と説得力を持つに至ったのだ。
そしてそれを、ジョーイが自分で気付くのではなく、これまで恣意的にアクション面での活躍の機会が与えられてこなかったホリーやリナの口によって語られたところに、今作のもっとも肝要なテーマが込められていたと思う。
これまで自分は、男だけが危険な戦いの中に進んで身を置き、女性陣が自分の意志だけで危地に飛びこむような姿を極力描かないようにしていたのは、”守る王子様と守られるお姫様”という、ある種古くからあるジェンダー論的立場に立った作劇なのかと思っていた。けれど今作は、「真のヒーローは誰も悲しませない」というコンセプトを描くことで、古臭い観念を彼方へと置き去りにしつつ、一方で原理主義的に男女平等を謳う行き過ぎたフェミニズムをも乗り越えた、近未来的な男女関係のあり方を提示しようとしたのだ。
男女平等という観念は、現代社会が絶対に獲得しなければならないものであると確信する一方で、しかし字面ほど分かりやすい主義主張では決してない。男と女はともに人間として平等だが、肉体的にも精神的にも別種のイキモノであることも事実だ。そんな男女が真に人間として平等たり得るには、法律やら慣習やら各人の意識やら、乗り越えなければならない問題が山積みだ。また平等という言葉の意味する次元(法律が平等なら良いのか、肉体差をどこまで考慮すべきなのか、出産の問題は、あるいは独立と依存の折り合いをどう付けるか、等々)も、論者によってまったく異なっており、いったいどのレヴェルで話を進めるべきなのか、統一的な見解さえ形成されていないように思う。
もちろんアニメ「HEROMAN」が、そんな難しい問題を扱う作品でないことは明明白白だが、しかし今作が掲げる「ヒーローとは」という問いかけに、伝統的に性差の問題が色濃く付きまとってきたことは事実であって、今作も男女のあり方に目をそらしていては決して成り立ち得ない。
今作が描いてきたのは一見すると、男はかくあるべしという、いまだに世の男性たちがひそかに憧れてはいるが、なかなか自分の手では届きそうにないと諦めている遠い理想のような男性像を、ヒーローとして設定しているように見えなくもない。また、そうした面が無かったとは決して言えないだろう。だが今作は、ジョーイ・ジョーンズという一人の内気な少年が、筋骨隆々としたいかにも男らしい父親(およびその化身であるヒーローマン)に憧れ、真のヒーロー=男らしい騎士道的なヒロイズムを目指していたところへ、リナやホリーといった女性陣から待ったをかけられる。彼女たちは魔法少女でもなければ科学者でも無い、地球を守るためには何の役にも立たない存在であって、シリーズ序盤から何度も、ジョーイ達を手伝いたくてうずうずしているのを「危ないから」といって押しとどめられてきたキャラクターだ。そんな彼女たちが、ヒーローとしてのジョーイに何を求めていたか。それに気付くことが、男性の理想像として描かれてきた古臭いヒーロー像を乗り越えた、普遍的・全人類的な意味のこもった新しいヒーロー像の提示に繋がっている。
特に我々は、異星人との対決を描くと言う作品の表面上のストーリーに気を取られるあまりに、今作が提示したヒーロー像を特殊状況下で特殊な人物が勝ち得た特異な例に過ぎないのだ、などと考えてはならない。たしかに作品は、悪の大王を倒すドラマを描くものであった。だがそんな大王を持たないからといって、今作で提示されたヒーロー像を自分の生き方とは関係の無い夢物語だと考えてはならない。ジョーイの決意したヒーローとしての生き方は、男も女も超えた視点から、人類共通に受け止められるべきメッセージ性を獲得していることを、よく認識するべきである(ジョーイ・ジョーンズというキャラクターがただの少年ではなく、女の子と見紛うばかりの中性的な顔立ちをしている点にも、作り手のメッセージが込められているだろう)。
そもそも、我々の現実には本当にゴゴールはいないと言い切れるのだろうか。地球の中心部へ向けて大穴を穿ち、地球上と地球内部のすべての資源やエネルギーを喰らい尽くそうとする異形の怪物の姿は、そっくりそのまま、我々人類の置かれた状況を象徴していると言えるのではないか?そして、そんな状況を知りながらのうのうと生きている我々自身の中に、真のヒーローによって倒されるべき悪が、存在しているのではないか?
ゴゴールを打倒したとき、灰色だった地球が一挙に青く美しい星へと変貌した映像は、なんとも象徴的である。いまこうしてアニメを見ている我々のような若者がこれから生きて行く地球は、ますます灰色の混迷に覆われて行くであろう。私たちは、スクラッグのように宇宙を渡る技術も持たないくせに、急速に地球を喰らい尽くそうとしている。そんな自殺行為を食い止めるのは、科学の発展でも奇跡の到来でもなく、我々一人一人が自覚し行動を起こすことである。そんなことはもう何十年も前から心ある人々によって訴えかけられていたのだが、それに耳を貸さなかったのはいったいどうしてか。どうすれば地球の青さを取り戻すことができるのか。
それは、ジョーイが指し示してくれた力強くも優しい生き方の中に、ヒントを見出すことができるだろう。ヒーローとして生きることは、何も特別なことではない。真のヒーローは、ほんの一握りの、身近な人々の幸福のために戦える人のことなのだから。
----
それでは、これにて以上となります。どうもありがとうございました。

にほんブログ村
↑ランキングに参加中です。拍手の代わりですので、読んで良かったとちょっとでも思ったら、クリックしてもらえると嬉しいです^^
Tweet
・最終回感想
素晴らしかった!こんな見事な最終回を飾るとはね。「ヒーローとは何か」。そんな、いまどき流行りっこないテーマを掲げながら全26話を走破してきた今作だが、ここまで見事に、そのテーマを全力で描き切り語り切ったことに、まず最大限の賛辞を贈りたい!
実質的には、第22話「メモリーズ」と今回との2話分で、そのテーマを表現するという構図だった。22話が素晴らしい出来で、しかも作品テーマにぐっと踏みこんで見せてくれた回だったことが、きちんと下地として活用されてこの最終話に帰結していた。そしてその2話分のエピソードを何重にも支え補完する意味が、他の全話数に込められていたと言える。各話ごとの出来映えにはムラがあったが、全体を通じてひとつの堅固な軸が築かれていたために、一個の作品としてどっかと立ち上がっていたし、十二分の説得性を持って作品テーマを訴えることができていた。まるで、足腰の強靭なヒーローマンの姿そのものを連想させる腰の据わった安定感で、抜群にパワフルな作品に仕上がっていた。
そしてそうした全体像を見据えた作劇だからこそ、クライマックスとして用意された今回のエピソードの迫力とメッセージ性とが、最終回クオリティの超絶作画と絶妙なシンクロを果たす見事なアニメーションに昇華されていた。ただ良い作画を見せるだけでも最終回っぽさは出るし、ゴゴールを派手にぶちのめして平和を勝ち取るのが今回のお話だと思ってもいたから、まさかこんなに、作品を貫くテーマ性を描くためのドラマであり映像表現であるところの一個の作品として結実されるとは、思っても見なかった。あまりに鮮やか過ぎて、視聴後は完全に言葉を失い、涙さえ出てきた。
・真のヒーローとは。今作に込められたメッセージ
今回はとくに、第22話でほのめかされていた「真のヒーロー」像が、改めて、それも女性視点から強く訴えかけられたのが素晴らしかった。
今回セリフで語られた作品テーマは、最終回だからという理由で唐突に持ち出されたものではなく、過去の話数(22話だけでなく)ですでに何度も描写されてきたものであって、今回はそれを、最後のひと押しとしてセリフに具現化したものに他ならない。だから、映像的観点で演出やキャラの演技が素晴らしかったからという理由だけではなく、シリーズを通じての作劇の効果も大いに発揮されていたからこそ、これが本当のヒーローだ!という作り手の訴えかけが計り知れない迫真性と説得力を持つに至ったのだ。
そしてそれを、ジョーイが自分で気付くのではなく、これまで恣意的にアクション面での活躍の機会が与えられてこなかったホリーやリナの口によって語られたところに、今作のもっとも肝要なテーマが込められていたと思う。
これまで自分は、男だけが危険な戦いの中に進んで身を置き、女性陣が自分の意志だけで危地に飛びこむような姿を極力描かないようにしていたのは、”守る王子様と守られるお姫様”という、ある種古くからあるジェンダー論的立場に立った作劇なのかと思っていた。けれど今作は、「真のヒーローは誰も悲しませない」というコンセプトを描くことで、古臭い観念を彼方へと置き去りにしつつ、一方で原理主義的に男女平等を謳う行き過ぎたフェミニズムをも乗り越えた、近未来的な男女関係のあり方を提示しようとしたのだ。
男女平等という観念は、現代社会が絶対に獲得しなければならないものであると確信する一方で、しかし字面ほど分かりやすい主義主張では決してない。男と女はともに人間として平等だが、肉体的にも精神的にも別種のイキモノであることも事実だ。そんな男女が真に人間として平等たり得るには、法律やら慣習やら各人の意識やら、乗り越えなければならない問題が山積みだ。また平等という言葉の意味する次元(法律が平等なら良いのか、肉体差をどこまで考慮すべきなのか、出産の問題は、あるいは独立と依存の折り合いをどう付けるか、等々)も、論者によってまったく異なっており、いったいどのレヴェルで話を進めるべきなのか、統一的な見解さえ形成されていないように思う。
もちろんアニメ「HEROMAN」が、そんな難しい問題を扱う作品でないことは明明白白だが、しかし今作が掲げる「ヒーローとは」という問いかけに、伝統的に性差の問題が色濃く付きまとってきたことは事実であって、今作も男女のあり方に目をそらしていては決して成り立ち得ない。
今作が描いてきたのは一見すると、男はかくあるべしという、いまだに世の男性たちがひそかに憧れてはいるが、なかなか自分の手では届きそうにないと諦めている遠い理想のような男性像を、ヒーローとして設定しているように見えなくもない。また、そうした面が無かったとは決して言えないだろう。だが今作は、ジョーイ・ジョーンズという一人の内気な少年が、筋骨隆々としたいかにも男らしい父親(およびその化身であるヒーローマン)に憧れ、真のヒーロー=男らしい騎士道的なヒロイズムを目指していたところへ、リナやホリーといった女性陣から待ったをかけられる。彼女たちは魔法少女でもなければ科学者でも無い、地球を守るためには何の役にも立たない存在であって、シリーズ序盤から何度も、ジョーイ達を手伝いたくてうずうずしているのを「危ないから」といって押しとどめられてきたキャラクターだ。そんな彼女たちが、ヒーローとしてのジョーイに何を求めていたか。それに気付くことが、男性の理想像として描かれてきた古臭いヒーロー像を乗り越えた、普遍的・全人類的な意味のこもった新しいヒーロー像の提示に繋がっている。
特に我々は、異星人との対決を描くと言う作品の表面上のストーリーに気を取られるあまりに、今作が提示したヒーロー像を特殊状況下で特殊な人物が勝ち得た特異な例に過ぎないのだ、などと考えてはならない。たしかに作品は、悪の大王を倒すドラマを描くものであった。だがそんな大王を持たないからといって、今作で提示されたヒーロー像を自分の生き方とは関係の無い夢物語だと考えてはならない。ジョーイの決意したヒーローとしての生き方は、男も女も超えた視点から、人類共通に受け止められるべきメッセージ性を獲得していることを、よく認識するべきである(ジョーイ・ジョーンズというキャラクターがただの少年ではなく、女の子と見紛うばかりの中性的な顔立ちをしている点にも、作り手のメッセージが込められているだろう)。
そもそも、我々の現実には本当にゴゴールはいないと言い切れるのだろうか。地球の中心部へ向けて大穴を穿ち、地球上と地球内部のすべての資源やエネルギーを喰らい尽くそうとする異形の怪物の姿は、そっくりそのまま、我々人類の置かれた状況を象徴していると言えるのではないか?そして、そんな状況を知りながらのうのうと生きている我々自身の中に、真のヒーローによって倒されるべき悪が、存在しているのではないか?
ゴゴールを打倒したとき、灰色だった地球が一挙に青く美しい星へと変貌した映像は、なんとも象徴的である。いまこうしてアニメを見ている我々のような若者がこれから生きて行く地球は、ますます灰色の混迷に覆われて行くであろう。私たちは、スクラッグのように宇宙を渡る技術も持たないくせに、急速に地球を喰らい尽くそうとしている。そんな自殺行為を食い止めるのは、科学の発展でも奇跡の到来でもなく、我々一人一人が自覚し行動を起こすことである。そんなことはもう何十年も前から心ある人々によって訴えかけられていたのだが、それに耳を貸さなかったのはいったいどうしてか。どうすれば地球の青さを取り戻すことができるのか。
それは、ジョーイが指し示してくれた力強くも優しい生き方の中に、ヒントを見出すことができるだろう。ヒーローとして生きることは、何も特別なことではない。真のヒーローは、ほんの一握りの、身近な人々の幸福のために戦える人のことなのだから。
----
それでは、これにて以上となります。どうもありがとうございました。

にほんブログ村
↑ランキングに参加中です。拍手の代わりですので、読んで良かったとちょっとでも思ったら、クリックしてもらえると嬉しいです^^
Tweet
この記事へのコメント
難しいことは分からないけれど、見ていてハラハラさせられたし、毎週続きが気になるアニメだった。
今思うことはただひとつ、終わって欲しくなかったということだ。
このヒーロー達をまだ見ていたかった。応援していたかった。
私もヒーローになりたい、そう思ったことは何度もある。私の家庭の事情もあったからかもしれない。大切な家族を、友達を守りたい。そう思っていた。
そしてこのアニメと出会った。
主人公にはとても共感でき、憧れた。
あんな風に世界を救うことなど私には無理だ。
しかしちっぽけなものでいい。私にも守りたいものはある。そのちっぽけなものを私は守っていきたい。
できることなら続いて欲しい。しかしこのまま終わっても彼らがヒーローであることには変わりない。
彼らは、今までも、これからも、私のヒーローだ。
コメントどうもありがとうございます!
ヒーローになりたい。この願望は、成長すればするほど儚く、虚しくなっていって、10代も半ばを過ぎる頃にはむしろ嘲笑の対象にさえなってしまう願望だと思います。最近のアニメでも、男の子キャラが真っ当なヒーローとして描かれることのなんと少ないことか。
そういう点で今作は、今のアニメ界、ひいては日本の若者たちに、現代だからこそ投げかけなければならない重大なメッセージを、込めてくれていたように思います。
世界をたった一人で救うことは出来なくても、一人ひとりの小さな勇気ある行動でしか、世界は救うことはできない。そんな単純な真理を、真摯な態度で訴えかけてくれると同時に、その方途を分かりやすく提示してくれた今作は、とても貴重なものだと思いました。
ジョーイたちの姿を忘れないでいることで、何度でもこの作品のメッセージを思い起こすことが出来れば、それは素敵なことでしょうね。