放浪息子 第2話「きらい きらい 大きらい ~Cry baby cry~」

なんなんだろう、この夢のような30分間は。ストーリーによってではなく、純粋にただ画面を眺め声を聞いているだけで、こんなにも幸福にしてくれるアニメって、本当に貴重。




・今回のお話と、リアリティについて


今回のお話は、今作のもう一人のヒロインと言って良いであろう千葉さおりをフィーチャーしたエピソード。前回の第1話が二鳥と よしの の二人を中心に据えていたので、生物学上の分類通りに二鳥修一を男性、高槻よしのを女性とした場合、千葉さおりと3人で典型的な三角関係が成り立っているわけだ。


二鳥と よしの が両想いなら、さおりは横恋慕しているだけに過ぎないのだけど、よしの がどうもあまり真面目に恋愛について考えられていない上に、3人とも元友人同士ということで、非常に錯綜とした間柄になっている。やはりここも、思春期になったかどうかも曖昧で、まだ恋愛をまともに捉える事のできない中学一年生という微妙な年齢設定だからこそ、こんな針の穴を射抜くような繊細にすぎる作劇が、成立している。随分と厄介なドラマに挑戦するよなぁw


もちろん今回も、別にさおり一人を描いた回ではなくて、全校生徒のキャラクター付けが行われているんじゃないかと錯覚してしまうほど豊かな人間関係や舞台空間の中で、幾人ものキャラが交錯し、それぞれに魅力を放ちながら、劇が展開されていく。セリフのひとつだって聞き逃さないように、ほんの些細な仕草や表情の変化も見逃さないように、画面にかじりつくようにして見なければ、とても今作の表現しようとしている世界の奥深さを伺い知ることはできないだろう。


にとりん と よしの が、お互いに相手の笑うのを見る場面。バスケ部とバレー部の練習風景を想像して「佐々さんかわいそ」と呟くメガネくん。表情は変わらないのに、誰よりもその内面の葛藤を表現してしまうような千葉さおりの顔。公園に響き渡る、ちーちゃんの馬鹿笑い。こうしたモティーフの一つひとつが、それぞれに無限の広がりを持つドラマ性を、内包しているかのようだ。




前回もそうだったけれど、冒頭にインタビュー的なシーンから導入されるのが、また素晴らしいなぁ。あたかも編集を経た後のビデオテープであるかのように、不自然なつなぎ目や手作り感のあるアングルといった映像上のノイズをわざと見せて、まるでドキュメント映画でも見ているかのような感覚にさせる。手法としてはメタ的なんだけど、アニメーションによって表現されたキャラクターたちがあたかも本当に生きていて、彼らの過ごした時間を第三者がまとめたフィルムであるかのように錯覚させることで、作中の出来事をじつに生々しく見せることに成功している。映画「第9地区」などでも、まったく同じような手法が用いられていてとても効果的だったものだ。


そうした生々しさは、インタビューシーンのみならず、むしろ本編のいたるところで追求されている要素だ。背景やモブの描き込みはもちろんだし、声優のセリフのあて方や秀逸なレイアウト、あるいは他のアニメ作品とは大きく趣を異にする絵柄・色遣いなども、今作をいかにもアニメらしい安っぽさから切り離すことに寄与しているかもしれない。中学生の生活の切り取り方やディテールもじつにリアリティがあって、ホントに歳相応のキャラクター性のもとに登場人物たちを動かしている印象だ。


そしてその中で実際に登場するキャラクターたちの、なんと魅力的なことか。今回は佐々かなこや更科千鶴(ちーちゃん)といった人物達にもしっかりとスポットが当てられたが、典型的な量産型キャラクターが一人もいない。みんなそれぞれ、どこにでもいそうな真実味と、ここにしかいない個性の双方を発揮していて、またそれが今作の扱うデリケートなテーマ性やドラマ性ともしっかりと噛み合っていて、うっとりするような画面空間を作りあげている。ストーリー云々ではなく、ただ画面を見てキャラクターたちのしゃべるのを聞いているだけで、こんなにも幸せになるなんて、信じられない。




・きらい きらい 大きらい ~Cry baby cry~


この作品、各話のサブタイトルがとても秀逸だと思うのですよ。


今回のサブタイは「きらい きらい 大きらい ~Cry baby cry~」。”きらい きらい 大きらい”ってのはいかにも千葉さおりの胸の内をそのまま掴みだしたようなタイトルであるが、それにビートルズの「Cry Baby Cry」がくっついて、韻を踏みながら何重にも解釈が成り立つような深みと味わいを持たせている。一つの語にいくつもの意味を読みとれるようにする工夫に遊び心や芸術性を見出そうとするのは、もう千年以上昔からの、日本の文化だ。




「きらい」という語は、非常に鋭く、心の内から外へと発信される言葉だ。私はこれが嫌い。私は彼女が嫌い。嫌っている主体は自分であり、対象はあくまで他者だ。


千葉さおりは、たくさんのものを嫌う。嫌うという行為が主体と客体が無ければ成立しないものであるなら、たくさんのものを嫌うということは、たくさんのものに興味があり、それを意識しているということだ。興味が無ければ、好きも嫌いもない。彼女は自分が嫌っているものが、どれだけ自分と深い関わりを持たざるを得ないのか、よく分かっているのだ。だから彼女は、嫌う。徹底して敵対するのだ。


そしてその最大の敵が、高槻よしのであり、二鳥修一であり、そしてまた自分自身であろう。「きらい きらい 大きらい」というタイトルは、強調表現として”嫌いの3乗”を表わしていると同時に、あれとこれとそれ、3つのものを嫌っているということでもあると思う。それはすなわち、3人の壊れた友情であり、3人のもつれた恋であり、その3人が同じクラスで他の友達をも巻き込みながら一緒の空間で「生きて行」かなければならないという宿命だ。そしてさおりは、今自分が嫌っているものの多くを、じつは本当は心の底から愛してやまない自身の気持ちにちゃんと気付いている。


ここにおいて初めて、「きらい」が「Cry」へと変化する。嫌いなのに好き。好きなのに嫌い。この相反する認識の中で、さおりは苦しみ、もがき、涙する。けれど、その涙が、赤ん坊のようだった自分自身を大きく成長する糧になるのだ。だからいまは、うんと泣けばいい。涙をこらえている貴女の顔は、ひどく切ないものなのだから・・・。




もちろん、泣きながら成長する赤ん坊は、何も千葉さおりだけではないし、また泣いたからといって勝手に大きくなるわけでもない。なぜなら彼女たちは、”もう色々なことを知っているべき年齢なのだから”。自分が悩んで泣いて苦しむことと同じくらい、誰かを悩ませて泣かせて苦しませること。それが彼らの経験するべき成長へと繋がるのだと思う。ちょうど佐々かなこが親友二人に絶交を突き付けて困らせたように。彼らの年代の少年少女にとって、自分が悩み傷つくことと、誰かを悩ませ傷つけることは、その価値において等しい。そんな双方向の傷つけ合いや慰め合いが、彼らの成長物語の原点であり、すべてではないだろうか。


思えば、前回の「おんなのこって なんでできてる?」とも関連することで、ジョン・レノン作詞作曲の「Cry Baby Cry」もまた、マザー・グースに影響されたとの説があるとのことだ。マザー・グースに象徴されるような童謡やおとぎ話には、あくまで子供向けの物語や言葉遊びとして語られていながら、しかしふとしたときにドキっとするようなメッセージが、込められているものである。ちょうど今作の主人公たちは、子供時代に触れてきたいくつもの遊びの中に、大人の世界に属する危険な香りを、嗅ぎ取りはじめる年代だと言える。正確に言えばそれは原作で描かれている小学校高学年が該当し、中学生になった今は、よりはっきりとしたカタチで、大人の世界を垣間見る少年少女たちの姿が描かれていると言える。第1話・第2話では、この物語のそのようなスタンスを明確に打ち出した話数だったと言うことができるだろう。


さて、次回のタイトルは「ロミオとジュリエット ~Juliet and Romeo~」だという。もちろん、英語部分が男女あべこべに書かれている点が、すべてを物語っているようなサブタイトルだろう。いよいよ本格的に倒錯しはじめる性別が、メインテーマとなってくるのだろうか。果たしてどのようなエピソードが繰り広げられるのか、楽しみだ。




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それでは、今回は以上です。


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この記事へのコメント

白米プチョン
2011年01月23日 11:44
「絶交」って小中学校特有の表現ですよね。
中学校時代の上手くいきそうでいかない友達関係やちょっとした出来事で揺れ動く心なんかが、観ていてもどかしいなぁと思いながらも、ここまで際どいテーマをこの生きたキャラ達でどう消化してくれるのか気になっています。

絶交発言を聞いて、こいつら今まで仲良かったんだっけ、と思い当たるくらい人間関係把握してなかったり、
そもそも視聴2話目にしてまだ名前と顔の一致しないキャラが居たりという手探りで観てる状況なのですが、すでに注意しないと見過ごしてしまう細かい描写が多く(一話目のラストシーンも、人様のブログを読むまで何の場面だか気付かず)内容が濃そうなだけにもどかしい想いをしております。

原作の途中からという事で、普通のアニメなら話数を重ねながら少しずつ人間関係が展開されたり(or明かされたり)しながらストーリーを楽しめるだけに、置いてきぼりを食らわないかが心配ですが、第一話の自己紹介シーンなんかは親切でしたね。

そして原作未読なのに放映終了から短時間で(アニメブログは皆そうですが)ここまでの考察を書けちゃうおパさんが相変わらずスゴ…



つかみの良いアニメは先を待ちきれず原作に手を伸ばしてしまう悪い癖(?)が自分にはあるので、そのうち原作買うかも知れません。
志村貴子さんの漫画は書店でたまに表紙を見かけながらも絵柄で今まで敬遠してたんですが、調べたら一部で非常に高く評価されてるそうで。
おパゲーヌス
2011年01月24日 03:06
>白米プチョンさん
頑張って書いている記事を褒められると嬉しいです。どうもありがとうございます。

あおきえい監督がツイッターで呟いてましたが、原作未読者でもちゃんとドラマを楽しめるよう、丁寧に、そして意欲的に作品を作ってくれているので、原作既読者の方がどう思われるかは分かりませんが、アニメだけでも十分に魅力的な作品だと思います。セリフや表面的なストーリー展開はかなり淡白に表現されている感じがしますが、言葉のひとつひとつに万感の想いが込められているようで、また演出面にもたくさんのメッセージが盛り込まれていると思うので、とても想像の膨らむ作品だと思いますね。あとは自分の感じたことを言葉に表現していけるよう、なんとか頑張ってみます^^

原作は自分も気になりまして、今日、同じ作者の『青い花』のほうを手にとってパラパラとめくってみたのですが、アニメの出来が素晴らしかった分、ページのひとつひとつから受ける印象は思ったよりインパクトが弱かったように見えました。でも人気の高い作家さんなので、真面目に読めばすごく奥深い世界が広がっているのではないかと想像しています。時間のあるときにゆっくり読んでみたいですね。

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