放浪息子 第3話「ロミオとジュリエット ~Juliet and Romeo~」

アバンから、腹抱えて笑わせてもらいました。今週はコミカルタッチ、なのに何この切ない感情のほとばしりは。




・想像を掻き立てる物語の結晶


今回は、クラスの出し物として倒錯劇を行うことが決定し、にとりんと千葉さんが接近するのが、メインエピソードと言えばそうなのかもしれない。けれど、現状では誰が主役で誰がヒロインでとか、ほとんど感じさせない群像劇として、各方面で魅力的な小エピソードが描かれ、それらが複雑に絡み合っていく。


表面的には、非常に混沌としたドラマであったと言えよう。この30分間をうまく構成して登場人物の内面を紐解き提示しようとか、そんな作り手の意図がほとんど感じられないままに、全てのキャラが自分勝手に主役を気取って動き回る。我々は劇中の役割ではなく、ただ画面に映される時間の長さだけでもって、誰が主人公で誰が脇役なのかを判断するしかない。またそこで繰り広げられる種々の物語も、テーマや方向性はてんでバラバラだ。


高槻よしのは、本格的に変化し始めた自分の身体にショックを受け、改めて男性への変身願望にすがりつく。二鳥真穂は思わぬ恋の始まりにうろたえ、体調不良とのダブルパンチでへこたれそうになりながらも、基本的にはやっぱりパワフルだ。瀬谷の声変わりを目の当たりにした有賀誠は、残された時間の少なさを嘆いて親友を誘い、女装願望にまっしぐら。佐々かなこは理想の友情がいかに遠い夢であるかを痛感し、更科千鶴は全力で日常の特殊さを満喫している。やっと二鳥との二人だけの接点を見つけた千葉さおりは、半ば喜び半ば嫉妬に燃えあがるが、彼女がこのシチュエーションをどう活用するかは、今後の楽しみである。


こうした小さな物語が、全体的にコミカルに、小気味良いテンポで描かれながら、あっちへ行ったりこっちへ来たりと、次々と繰り出され、混ぜこぜになっている。これまで以上に群像劇としての性格を打ち出した回だったと思う。またそれぞれのエピソードでいちいち結末を設けずに放置したのは、それぞれがキャラクターの内面を表現するためのエピソードであり、行動の結果ではなく、その要因や過程をこそ重視したからだろう。あえて中途半端とも思える箇所で描写を放り投げることで、視聴者の意識をキャラクターの感情へ、ぐっと引き寄せる。


男の子になりたい高槻よしのの背中にブラが透けているのを見た二鳥は、それを見て何を思ったかをあえて語らず、ただ事実だけを指摘して幕を引いた。そこにどんな感情を読みとるかは、あえて視聴者の想像に委ねられている。これが、今作の見どころであり、圧倒的な存在感に繋がっているのだろうなぁ。


アニメは、ただでさえ視聴者が想像力を発揮し、脳内でたくさんの要素を補完してくれなければ、作品として成り立たない創作物だ。だからこそ、視聴者の想像力を味方につけて物語を紡いでいく今作は、こんなにも見る者の心を揺り動かすのだろう。




・フィクションを演じるということ


同じ原作者の『青い花』でも、劇中で演劇を行うエピソードがあったけれど、この作者は演劇に特別な思い入れがあるのだろうか。もとから虚構であるはずの漫画やアニメのキャラクターが、劇中でさらに虚構としての劇を演じると言う二重構造が、非常に興味深いし、作品の描こうとしているテーマとの親和性が高くて面白い。とくに今回のエピソードでは、フィクションであるはずの創作劇に、いかにその創作者(二鳥修一)の本心がそのままに表現されているか、というパラドックスが、『放浪息子』という作品自体に備わる不条理性を良く象徴していると思う。


二鳥やよしの達の日々の生活は、彼らにとっては本物ではなく、自分のものではない生を、仮面を付けて演じさせられているようなものだと言えよう。刻一刻と過ぎゆく時間それ自体が残酷な運命であることを、夢精や声変わり、乳房の発達といった性徴によって、彼らはまず痛感させられる。加えて、毎日決まった制服を着て行かなければならず、しかも自分の身体的特徴によって、選択の余地の無いままに制服の種類が決められる。それに反抗すれば奇異の目で見られ、上級生にイジメられるかもしれない。それでも確固たる信念があって自分の本当の性別を主張すれば良いのかもしれないが、別に彼らは本気で自分の身体と精神の性が乖離しているわけではなく、ただ急速に問答無用に変化してゆく未知の世界に戸惑っているだけなのだ。しかし自分達の所属しているこの社会は、そのようなどっちつかずの態度を許容してはくれない。だから彼らは、世間さまの定める性別を表面上は受け入れ、違和感や葛藤を抱えながら、毎日を過ごしている。


そんな自己矛盾を打破するために用意されたのが、劇中劇、虚構の中に描かれる虚構だ。我々視聴者から見れば、二鳥もよしのもマコちゃんもみんな虚構の世界の住人なのだが、その虚構世界の中に生きる彼らが、さらにその中で別のフィクションを創作し演じて見せることで、彼らが本当に望んでいることが、露わになる。




そして、これら劇中のフィクションを、登場人物たちがどのように捉えているか、という差異に注目することは、今作のドラマを紐解くもっとも重要な手掛かりになるのではないかと思う。今回で言えばそれはすなわち、自身の願望をストレートにドラマ化した二鳥と、既成ドラマのアレンジを用意した千葉さおりとの違いだ。さおりは、自分が性的倒錯にはさして関心が無いから、純粋に面白そうなドラマを選んだのだろう。そして、フィクションをそのようなエンターテイメントとして考えているのが、虚構によって本心を発露させようとする二鳥と、鮮やかに対比される。


クラスで演じる倒錯劇に限らずとも、劇中に描かれるフィクション、という要素は随所に散見される。二鳥が女装するのはまさにその最たるものだし、今回はマコちゃんも女装をして、女の子を装って声を録音してみせ、それを真穂や瀬谷から奇異の目で見られることになった。とくに真穂の女装嫌いは徹底している。その真穂も、モデルとしてカメラの前に立つのはまさに、仮面を付けて何かを演じる行為であると言えるのだが、モデル仲間の可愛さに黄色い声を上げ、友人から辞めろと言われるほどに、何かを演じきるまでには達していない。正直に生きることができ、その生き方がリアルの自分として違和感なく確立されてしまっているのが、現時点での真穂というキャラの特色であると言えるかもしれない。


現実世界で求められる自分像を、素に近い状態で受け入れられるか、それとも内心では拒みながら妥協して演じているか。このどちらに傾くかが、今作のキャラクターのそれぞれのドラマに直結している問題だ。現時点では正直に生きているようなキャラが、じつはその内面に深い矛盾と葛藤を抱えているということはあるかもしれないし、また今葛藤している人物がそれを乗り越えて行く様も描かれることがあるだろう。そしてそれらの物語は、そのキャラが何かを”演じる”という行為を通じて、核心に迫ってゆくのではないか。


ともあれ、簡単には割り切れない微妙な心の揺れ動きを、言葉と絵と音とによって奔流のように描きあげるこの作品。限られた時間の中で織りなす少年少女たちの物語の行く末を、全身で受けとめることができるよう、今後も心して画面に向き合っていきたい。




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それでは、今回は以上です。


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この記事へのコメント

あるるかん
2011年01月28日 09:46
二鳥や高槻は女装願望や断層があるのか、自分の性に嫌悪感があるのか、どちらなのでしょう?
今のところ、どちらとも取れそうな描写がある気がします。


主体である彼らが認識している彼らというものと、自分以外が認識している自分は必ずしも同一ではないし、本人だからといって自己認識が完全に出来ている訳でもありません。周囲の知っている自分を彼らは知らないし、彼らが考えている自分の姿がそのまま他人に伝わっていることもなく。周囲の他人が知っているのは環境が求める人物像と彼ら自身が想定した理想的自分の像とが一致した妥協点に形成される人物像という仮面にすぎないし、個性は個人が作り上げるものではなく、社会の中で不可抗力的に作られてしまう仮面のことなのでしょう。
などと考えながら観ていました。あの年代は迷子になる時期なのでしょうねぇ。私は「ブラック・ジャック」や「火の鳥」など手塚治虫作品ばっかり読んで感銘を受けていたくらいしか記憶にありませんね(笑)
おパゲーヌス
2011年01月28日 14:58
>あるるかんさん
いままで自分であったものが、内外からの圧力によって確実に変容を遂げて行く。そんな変化に対する戸惑いや恐怖感というものが、思春期の心理に影響しているのかもそれません。もし自分が美少年で、小学生の時分から女の子と仲良くしているような子だったら、ひょっとしたら二鳥たちと同じような戸惑いを覚えていたかも。幸い、そんなことはこれっぽっちもありませんでしたがw でも、そのあたりの感情を非常にリアルに描いているのが、この作品の最大の見どころでしょうね。

大人だって、本当の自分なんて分かって無い。というより、本当の自分って何だ、という疑問から目をそむけるのが、大人になるということかなと思います。その意味ではまさに、「個性は個人が作り上げるものではなく、社会の中で不可抗力的に作られてしまう仮面のこと」というのは正しいと思いますね。

にとりんと高槻さんが、果たして同じ感覚で異性への変身を憧れているのか、ちょっと疑問です。高槻さんは本気で自分の女性性を嫌っていそうですが、にとりんやマコちゃんは、果たして。性差そのものよりも、汚いものを避けて綺麗なものに縋ろうとする心理のほうが、強そうな印象がありますね。ある種の潔癖症というか。

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