輪るピングドラム 第12話「僕たちを巡る輪」
ウサギまで出てきちゃったよどうしよう。
とっても素敵な家族像として描かれてきたはずの高倉家の両親が、じつはテロリストだったという衝撃の事実。しかしそれさえも霞んでしまうほどのショッキングな展開、すなわち陽毬の突然の昏倒からはじまる一連のシーンに、言葉を失い釘付けにさせられるエピソードだった。
第1話の時点では、ペンギンにまつわる描写は初めて見聞きする特別さがあり、この物語はきっと高倉兄弟に訪れた奇跡を描くものなのだろうと思ってしまったのだけれど、その後の描写から、どうもペンギンたちは思っていた以上にこの世界の内部に入り込んでいたらしいと、認識を改めなければならなくなった。そして今回明かされた16年前の事件である。ペンギンだの生存戦略だのといったモノは、たったいま冠葉や昌馬たちの目の前で事件を引き起こしているだけではなく、なんと彼らの親の世代から(ひょっとしたらもっとずっと前から)、この世界とかかわり、運命の歯車を回転させてきたということだ。それも、巨大な組織を形成して大規模なテロを引き起こしてしまうほどに。
目の前のちんぷんかんぷんな出来事が実はずっと昔から繰り返されてきたことだった、というのは、もちろん『少女革命ウテナ』における決闘ゲームと同じ構図だ。ピングドラムの正体や生存戦略の意味が具体的に提示されていないのに事件だけはどんどん進行していくのも、世界を革命するという目的の意味が明示されないまま最終回まで突っ走ってしまった『ウテナ』そのままのやり方ではある。もちろんそれは何も『ウテナ』に限らず、アニメ等で描かれる物語のひとつの常套的な手法であるわけだけれど、しかしルールのよく分からないあるゲームが過去から繰り返し試みられているという図式は、運命と対峙しこれと戦おうとする若者を描くにあたり、じつに有効な手法であると思う。
昌馬が語るおとぎ話の中にもはっきりと示されていたことだけれど、運命というのは人間の認識をはるかに超えたルールで動いており、我々はそれに何も干渉することができないまま、ただ従うしかない。どうして松明の火を盗んではいけないのか。灰をちょっと拝借するくらいでなぜ罰を受けなければならないのか。どうしてその罰は理不尽でなければならないのか。人間が自分たちの知恵で生み出した法律と比べれば、馬鹿らしいくらいに意味の分からないルールが、罰則が、そこには存在している。とくに、「罰は一番理不尽じゃないとね」なんて、人間の裁判官がそんなことを言ったら大問題になるだろう。人間のルールでは、罰は罪の重さにふさわしいものでなければならないし、罪を犯したその状況に応じては情状酌量の余地も認められなければならない。しかし運命の女神は、きまぐれでいくらでも数値が狂ってしまう定規や天秤でもって、意味の無い規則を作り、無造作に我々の行為を評価して、不釣合いな罰則や恩賞を言い渡す。
ルールのよく分からないまま主人公たちが巻き込まれていくゲームは、そんな運命の不条理さの象徴だ。そしてそれが大昔から繰り返されてきたという設定は、人間が運命に抗おうとして無駄な努力を続けてきたということである。人間たちはなまじ頭が働くので、どうにかして不条理なゲームから抜け出して、運命に縛られ翻弄されることのない自由を追い求めて戦ってきた。しかしその戦いはどうしたって運命の設定したルールの中で行われてきたし、結局のところ勝利らしい勝利を収めることができなかった(だからいまだにゲームは続いている)のである。けれど人間たちは進歩しないので、世代が交代すればまた、いちから同じことを始める。そんな不毛な行為が延々と続けられてきたのが、『ウテナ』や『ピングドラム』で幾原監督が描き出す、若者たちの戦いなのだと言えるだろう。
むろん、16年前の事件が、高倉剣山とその妻に何をもたらしたのかは分からない。もしかしたら生存戦略に成功?したのかもしれないし、殺人容疑で逮捕されたかもしれない。あるいは16年前の計画において目標とされていたことと、陽毬に取りついたペンギン帽子や眞悧や夏芽真砂子らのそれぞれの思惑は、また別のものなのかもしれない。しかし少なくとも、”生存戦略”という言葉に象徴されるこのゲームが、16年経った後でもこうして若者たちを巻き込んでいるという事実があるのだから、そこに秘められた運命の意図(きまぐれ)もまた依然として存在し続けているのだろう。
それにしても、陽毬がこれまで命を保っていられたのが、冠葉の分け与えた生命力によるものだったとは。これは第1話のときに契約を交わしたのか、それともまた別の(もっと前の)タイミングで何らかのアクションがあったのだろうか。冠葉は本当にどこまでこの事件に足を突っ込んでいるのか謎すぎて、少し怖い。主人公と言うにはあまりにも視聴者と距離が離れすぎていて、しかし一方で彼の目的が極めて単純明快に描かれているという、ギャップの大きさが面白い。近年の大ヒットアニメになぞらえて言うなら、視聴者と視点が近い一方で人生の目的がときどきボヤけて見える昌馬は鹿目まどかに、視聴者と視点がかけ離れているのに目的が分かりやすい冠葉は暁美ほむらに、当てはめることができるかもしれない。うーん、ちょっと苦しいか?w
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とっても素敵な家族像として描かれてきたはずの高倉家の両親が、じつはテロリストだったという衝撃の事実。しかしそれさえも霞んでしまうほどのショッキングな展開、すなわち陽毬の突然の昏倒からはじまる一連のシーンに、言葉を失い釘付けにさせられるエピソードだった。
第1話の時点では、ペンギンにまつわる描写は初めて見聞きする特別さがあり、この物語はきっと高倉兄弟に訪れた奇跡を描くものなのだろうと思ってしまったのだけれど、その後の描写から、どうもペンギンたちは思っていた以上にこの世界の内部に入り込んでいたらしいと、認識を改めなければならなくなった。そして今回明かされた16年前の事件である。ペンギンだの生存戦略だのといったモノは、たったいま冠葉や昌馬たちの目の前で事件を引き起こしているだけではなく、なんと彼らの親の世代から(ひょっとしたらもっとずっと前から)、この世界とかかわり、運命の歯車を回転させてきたということだ。それも、巨大な組織を形成して大規模なテロを引き起こしてしまうほどに。
目の前のちんぷんかんぷんな出来事が実はずっと昔から繰り返されてきたことだった、というのは、もちろん『少女革命ウテナ』における決闘ゲームと同じ構図だ。ピングドラムの正体や生存戦略の意味が具体的に提示されていないのに事件だけはどんどん進行していくのも、世界を革命するという目的の意味が明示されないまま最終回まで突っ走ってしまった『ウテナ』そのままのやり方ではある。もちろんそれは何も『ウテナ』に限らず、アニメ等で描かれる物語のひとつの常套的な手法であるわけだけれど、しかしルールのよく分からないあるゲームが過去から繰り返し試みられているという図式は、運命と対峙しこれと戦おうとする若者を描くにあたり、じつに有効な手法であると思う。
昌馬が語るおとぎ話の中にもはっきりと示されていたことだけれど、運命というのは人間の認識をはるかに超えたルールで動いており、我々はそれに何も干渉することができないまま、ただ従うしかない。どうして松明の火を盗んではいけないのか。灰をちょっと拝借するくらいでなぜ罰を受けなければならないのか。どうしてその罰は理不尽でなければならないのか。人間が自分たちの知恵で生み出した法律と比べれば、馬鹿らしいくらいに意味の分からないルールが、罰則が、そこには存在している。とくに、「罰は一番理不尽じゃないとね」なんて、人間の裁判官がそんなことを言ったら大問題になるだろう。人間のルールでは、罰は罪の重さにふさわしいものでなければならないし、罪を犯したその状況に応じては情状酌量の余地も認められなければならない。しかし運命の女神は、きまぐれでいくらでも数値が狂ってしまう定規や天秤でもって、意味の無い規則を作り、無造作に我々の行為を評価して、不釣合いな罰則や恩賞を言い渡す。
ルールのよく分からないまま主人公たちが巻き込まれていくゲームは、そんな運命の不条理さの象徴だ。そしてそれが大昔から繰り返されてきたという設定は、人間が運命に抗おうとして無駄な努力を続けてきたということである。人間たちはなまじ頭が働くので、どうにかして不条理なゲームから抜け出して、運命に縛られ翻弄されることのない自由を追い求めて戦ってきた。しかしその戦いはどうしたって運命の設定したルールの中で行われてきたし、結局のところ勝利らしい勝利を収めることができなかった(だからいまだにゲームは続いている)のである。けれど人間たちは進歩しないので、世代が交代すればまた、いちから同じことを始める。そんな不毛な行為が延々と続けられてきたのが、『ウテナ』や『ピングドラム』で幾原監督が描き出す、若者たちの戦いなのだと言えるだろう。
むろん、16年前の事件が、高倉剣山とその妻に何をもたらしたのかは分からない。もしかしたら生存戦略に成功?したのかもしれないし、殺人容疑で逮捕されたかもしれない。あるいは16年前の計画において目標とされていたことと、陽毬に取りついたペンギン帽子や眞悧や夏芽真砂子らのそれぞれの思惑は、また別のものなのかもしれない。しかし少なくとも、”生存戦略”という言葉に象徴されるこのゲームが、16年経った後でもこうして若者たちを巻き込んでいるという事実があるのだから、そこに秘められた運命の意図(きまぐれ)もまた依然として存在し続けているのだろう。
それにしても、陽毬がこれまで命を保っていられたのが、冠葉の分け与えた生命力によるものだったとは。これは第1話のときに契約を交わしたのか、それともまた別の(もっと前の)タイミングで何らかのアクションがあったのだろうか。冠葉は本当にどこまでこの事件に足を突っ込んでいるのか謎すぎて、少し怖い。主人公と言うにはあまりにも視聴者と距離が離れすぎていて、しかし一方で彼の目的が極めて単純明快に描かれているという、ギャップの大きさが面白い。近年の大ヒットアニメになぞらえて言うなら、視聴者と視点が近い一方で人生の目的がときどきボヤけて見える昌馬は鹿目まどかに、視聴者と視点がかけ離れているのに目的が分かりやすい冠葉は暁美ほむらに、当てはめることができるかもしれない。うーん、ちょっと苦しいか?w
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この記事へのコメント
失われたからきっと何者にもなれなくなってしまったのだとしたら、ピングドラム=生まれた境遇によって失われてしまった将来の可能性と繋げることもできそうですね。
最近小説版を読んだので陽鞠が一人で罪を背負わされてしまう理不尽さが一層胸にきました。某事件とのリンクといい、だんだんと重苦しさが増してますね。それがまた、禁断の果実のような味わいで癖になってくるんですけど(笑)
強大すぎる運命の流れにどう逆らうのか、後半戦が楽しみです。
小説版読んでるともっと胸に来るのですかー。自分なんかはアニメだけでも今回は相当に滅入ってしまいましたけどねw 冠葉と陽毬(with 帽子)が命のやり取りをするエロティックなシーンも、描写がやたら扇情的だっただけにいっそう切なく哀しい生の描写として、強いショックを受けました。
ピングドラム=将来の可能性、ですか。面白いですね。それを受けてですが、さらに作品の内容を吟味しながら考えてみると、”将来の可能性を自分の意志で選択できる自由”というところまで限定しちゃってもいいんじゃないかな、なんて思います。冠葉や昌馬が嫌いだといい、苹果が好きだと言った「運命」というヤツも、結局は彼らを束縛し自由を奪う存在として機能しているようですし、冠葉たちは自らそうした束縛の真っただ中に落ち込んでしまっているようにも見えます。外部からの影響だけでなく、内面のあり方からして、正しい将来を思い描く可能性を失っているのが、今作の主人公たちのように思えますね。
改めてその線でひとつ、ピングドラムなるものを考えておこうかなと思いました。次回からの感想に生かせればいいなw どうもありがとうございます^^
眞悧が助けにきたように思えるのですが、彼の持っているリンゴがアンプルマークになっていたことが気になります。
9話で陽毬に渡したリンゴはペンギンマークだったし、リンゴは愛による死を選択した者への褒美(1話)と考えると不穏な臭いがプンプンします・・。
そして「運命の至る所・95」の駅名がとても気になりました。95は事件があって、双子と苹果が産まれた年。そこが運命の至る所?・・生まれた所に返る?・・輪る?!!と一人で興奮してしまいましたw今回は感覚的にいくつかの点が繋がってきたような気がしました。
今回が12話目で折り返し地点だということに、放送後ずいぶん経ってから気づきましたw 陽毬はこのまま退場になってしまうのか、今後の扱い方が気になりますね。
もし眞悧が陽毬を助けるようなことがあれば、ものすごく胡散臭い陰謀臭がしますね。以前、陽毬の回想シーンで出てきた少年?の成長した姿なのかとも思ってましたが、ここにきてまたよく分からない人物になってしまいました。夢の中だけの存在じゃなかったのか、っていう。
自分は感覚的にもまだ全然繋がってないですw もともとこの手の謎解きとかストーリー予測は苦手なので、提示されたものを見て一喜一憂するのが精いっぱいです。BD買って改めて視聴してみたら、新しく気づく部分がたくさん出てきそうです。
幾原監督の作品で、第1話を見てBD購入を決めたのですが、12話でもう本当に絶対買うぞ!と改めて思いました。
おパゲーヌスさんの書かれていた通りに冠葉と陽毬の生存戦略はとてもエロティックなのに、そこに漂う背徳感や悲劇的な描写が絶妙で、心を鷲掴みにされました。
95年の世紀末な社会から今に至るを思い出させて(ちなみに私は作中でいうとタブキ先生世代です)語りかける一方で、心の感情的な部分とフェチズムを揺さぶられるなんて・・まだ後12話残っているのに終わりが楽しみでもあり猛烈に淋しくもあります・・(TT
世代的には、自分は95年の頃はまだ子ども過ぎて、サリン事件のショックとかあんまりピンと来ていません。あ、いや、年齢的には多蕗世代になるのか。でも精神的に幼すぎましたね。なので先週の回を見ても、はじめはなんのことやらさっぱり分からず、他の方が95年がどうこうと仰っていたのを見てなるほどと思ったくらいです。なので自分のブログでは、半分は意地で、1995年がどうのという話は避けていますw こんなスタンスでどこまでやれるかは分かりませんがw
でもやっぱりこの作品って、実際の社会問題が与えた影響を云々するよりも、それはあくまで動機や導入モチーフに過ぎず、根底にはあくまで「運命とどう向き合うか」という普遍的なテーマが貫かれていると思いますし、そのうえで各キャラクターの心理描写や劇中の事件の面白さが作られていると思うので、そこだけはブレないように、鑑賞していきたいですね。
奇抜なイメージばかりが付きまとう作品ですが(ウテナもそうだけどw)、奇抜さは枝葉であり、根幹のドラマはきわめて真摯にキャラクターと向き合って語られていると思います。そういう意味での、冠葉と陽毬(プリンセス)の抱き合うシーンの良さが、今回は光っていてとても良かったです。
それはやっぱりウテナでの「少女革命」に対する応え方を見たからだろうなと。ウテナもそれこそ色んなモチーフやテーマがありましたが、一番のテーマは最初から最後まで全くブレることなく貫かれていたんですよね・・。
何度も長々と失礼しました!私は管理人さんの感想がとても好きです!本編を見てから感想を読むのがいつも楽しみです。今週のエピソードも楽しみですね(^^
ウテナはTV版と劇場版と合わせて、あまりにもうまく行った奇跡のような作品でしたね。あの奇跡を、ウテナとはまた違ったスタッフを配して再び現出させることができるかどうか。さすがに十数年振りのアニメ監督業となると、客観的な推測は一層むずかしいですね。ファンとしては信じて待つしかないw
>本編を見てから感想を読むのがいつも楽しみです
このように言っていただけるのは本当に光栄なことです。これから先どこまでご期待に添えるか、はなはだ疑問ですが(笑)、よろしければどうぞお付き合いください。
http://armpit.info/how-much-should-you-worry-about-painful-lump-under-armpit