輪るピングドラム 第18話「だから私のためにいてほしい」

「私のために生きて」 すごく、すごく重たい言葉ですね。




仮面を脱ぎ捨てて本性を表した多蕗との対決の、決着編が描かれた第18話。桃果に対する執着心の由来が語られることで、多蕗がこれまでどんな思いを抱えて生きてきたのかが示される。


ここでもやはり、親と子どもの歪んだ絆と、その絆を喪失することに対する怖れや不安がどんなにか登場人物たちを苦しめてきたかということが描かれた。時籠ゆりの場合、変質的に理想を追い求める父親が登場し、彼が理想通りではなくなってしまった妻を見捨て、代わりに実の娘に理想を押し付けようとする傲慢で自己本位な姿を見せたが、多蕗桂樹の母親との思い出もそれとかなり近い。自分の理想通りではないからという理由で夫を取り換え、自分の理想通りではないからという理由で我が子を捨てる、あまりにも身勝手な実親の姿。そんな親を無邪気にも愛していることが、子どもたちにとっての枷や檻となる。


ここで、親が改心したり親代わりの優しい大人が現れるのではなく、同年代の少年少女によって救われていくのが、今作の登場人物たちの宿命的とも言える特徴だ。皆、いちどは自分を取り巻く状況に絶望し、堕ちていく運命を受け入れる用意までしてしまったが、間一髪のところで「この人のために生きよう」と思える同い年くらいの人物に出会っている。多蕗やゆりにとっての桃果、苹果にとっての昌馬、夏芽にとっての冠葉、そして高倉兄弟にとっての陽毬もそうだろうか。


だからそんな中で、唯一頼りになりそうな大人としていろいろと手を尽くしてくれる眞悧が、異様にアヤシく映ってしまうのだけれど(見た目はまだまだ大人と言い切ることのできない若々しい容姿も込みで)。ただ今回に関しては、年齢的にはもう大人である多蕗が、冠葉の行動に胸を打たれて、すんでのところで陽毬を救い出してくれたのが、これまでとは大きく異なる展開を取ったということができるかもしれない。多蕗が苹果に、桃果を失ってからの自分の心はモンスターになってしまったと語ったのも、はかりしれない悔恨の念に襲われたからだろう。今回の一件で、多蕗はもう気が済んだのだろうか? ゆりと多蕗の二人の動きは、次回から大きく変わるかもしれない。


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「私のために」・・・この言葉の重さを、今回はすごく実感させられた。桃果や冠葉の、我が身を呈して誰かを守ろうとする姿にももちろんとても感銘をうけるのだけど、たった一瞬間の危機的状況を防ぐだけでなく、そんな壮絶な戦いを生涯にわたって実行し続けなければならないわけでしょう。現実にあんな危険がどれくらいの確率で降りかかるかは問題ではない、しかし心意気の問題として、四六時中、命を懸けて、相手の人生の苦難も喜びもすべてを背負っていかなければいけない。これは大変な決意だ。


誰かのために生きる、というのは、覚悟や努力が必要ではあるけれど、自分自身のために生きるよりもずっと易しいことだと思う。というのも、人間は他者から命令されたことを実行しているほうが、自分で考えて行動するよりもラクだからだ。誰かのために、という自己犠牲の精神は、そのロマンティックかつヒロイックな印象もあって、人を酔わせ、容易に困難に立ち向かえる勇気を与えてくれる。時には自分の命まで簡単に捨ててしまえるくらい、誰かor何かのために生きるという姿勢は恐怖心を打ち消してくれる。神のためとか、愛する者のためとか、正義のためとか、そんなお題目を掲げながら大勢が死んだり殺したりしてきた。高倉冠葉の生き様はまさにそうした殉教者たちに通じるものがある。自分自身のことをどんなにちっぽけで無価値な存在だと思っていても、いやそう思っていればいるほど、誰かのために生きようと決意したときの意志の固さは強靭だ。


けれど、そんな犠牲を払って奉仕”される”側は大変だ。自分のもっているたったひとつの人生でさえ持て余すのに、他人がそのすべてを犠牲にして理想だの愛だのを押し付けてきたとき、押し付けられた側としては相手の人生をどう扱ったらよいのだろう。多くの場合、そうして他者の人生を押し付けられた人間は、その責任を神だの理想だのというさらなる他者に押し付けて、そうして自分もその自己犠牲の列に加わることで、心理的にも物理的にも責任逃れをしてきた。けれどそれだって万全の策ではないし、他人の良心を踏みにじるふてぶてしさや、あるいは自分のでっち上げたからくりを心から信じ込むだけの能天気さが求められる。実際それで、どれだけの思想家や政治家たちが暴走する戦車をコントロールし切れずに集団自決していったことか。


たぶん桃果は、そうした”押し付けられる側の責任”を理解したうえで、多蕗の人生を引き受けようと言ったのだった。彼女が本当に多蕗を好きだったかどうかは謎だし、ただのお人好しか、あるいはまったく別の意図があるのかもしれないけれど、いずれにせよ、生き甲斐をなくしてしまっている人間の”これから生きていく理由”に自分がなるということの意味は、100%分かって言っている。それが通じたからこそ、多蕗は自分の人生を彼女に捧げることにしたのだった。


それを考えれば、多蕗が桃果を失うことの意味を、ゾっとするほど痛感させられる。多蕗にとって桃果は、生まれたときから結び付けられている家族でもなければ、共に認め合った親友でもなく、ただ自分の人生が終わろうとしているそのときに突然現れた少女だった。そしてそれまでの関係性がほぼ白紙であったからこそ、この降ってわいた天使のような女の子に宗教的とさえ言える篤い信頼を置くことができた。条件次第で自分のことを愛することもあれば捨てることもある不誠実な母親の代わりに、どんなことがあっても自分を信じ守り続けてくれるホンモノの母を、彼は桃果の中に見出したはずである。その信仰の対象、絶対的な愛の象徴が、不意に自分の目の前から姿を消してしまうこと。こんな裏切りがあって良いのだろうか?


陽毬を助けようとして奮闘する冠葉の姿を見て、多蕗が感銘を受けて自分の愚かしさに気づいてくれたのは、多蕗が大人としての分別を取り戻したのではなく、むしろ彼がどんなに桃果を信奉していたかということの証左だろう。多蕗にとって桃果は、命の恩人という以上の意味を持っている。桃果の中に、彼はある種の神性、奇跡、救いを見出していた。そしてそんな神性を想起させる冠葉の姿に、心を動かされたのだ。彼は「桃果のために生きる」という決意を抱いていたわけだが、そこでいう「桃果」を、一個の個体としての荻野目桃果に限定されるのではなく、桃果的性質、桃果的行動とでも称することのできそうな性格や思想や行動様式に広く当てはめて考えることができたからこそ、冠葉の姿に感銘を受けたのだと思う。そしてそれができたのは、何と言っても、桃果という少女の人格の大きさの賜物だろう。




桃果は、王子様みたいだ。気高く、美しく、かっちょいい、桃色の髪の少女の王子様。どこまでもまっすぐで、優しくて、強くて、いつも前向きで、正しいことを愛し、勇敢で、一生懸命で、ときどき思い込みが強すぎて暴走してしまうけれど、でもずっと手を離さずに引っ張っていてくれる、きっとB型の女の子。いや、わかんないけどw でも出会えばきっと世界を変えずにはいられない、そんな強い輝きを、桃果の中に見出すことができるだろう。


もちろんその印象が作り手の用意した罠である可能性は否定できないんだけれども、少なくとも多蕗やゆりの心の中にいる桃果は、そんな印象で描かれている。この、失われた王子様とも言うべき桃果を再び取り戻せるか否か、という点も、今後の焦点のひとつになってくるのではないかと思う。次週以降の展開を見守りながら、このおとぎ話がどんな物語を紡いでいくのか、考えていくことにしたい。




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それでは、今回は以上です。


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この記事へのコメント

はるる
2011年11月12日 21:01
何者にもなれないという例のフレーズ。誰が誰だかわからなくなる、透明な存在っていう奴の事なんじゃないかと、ふと思いました。
でも、誰かのために生きる事というのは、結局その誰かをまた失えば(タブキのように)透明に逆戻りになってしまうんじゃないかと思いました。
だから、ヒマリのために生きる兄弟は、そのままではきっと何者にもなれないのでは。誰かのためじゃなければ、その誰かに依存しなければ生きられない、という意味で。
あるるかん
2011年11月12日 23:30
「私のために生きて」って言葉は想像以上に重い言葉ですよね。「私と一緒に生きて」なら互いに色々なものを分かち合うが、「私のために」は相手の人生丸ごと引き受けるのですから。


高倉兄弟は『刀語』の宇練銀閣みたいに生きるのに、何か守るものが必要な人間なんでしょうかね。
今回の夏芽の台詞は冠葉にはそんな生き方をさせたくないみたいに聞こえました。
ぽんず
2011年11月13日 09:28
自分の行動の重さを桃果が理解しているかは私には判断がつきませんが、よく人のアイデンティティのテーマとされる「誰かに必要とされたい」気持ちに応えることの負の面を描いてるのは秀逸だと思いました。それだけじゃダメなら一体どういう結論を持ってくるのかってどんどんハードルが上がってる感じですけど(笑)

個人的には慈愛の念を醸してきたりんごに感動すると共に不安を覚えてきました。桃果になることを断念して自分を生きる選択をしたことで、逆に桃果に近づいてしまうという皮肉な結果になりそうな気がして…
おパゲーヌス
2011年11月13日 14:07
>はるるさん
なるほど。今作の登場人物たちは皆、特定の誰かのために自分の生を捧げることでこれまで力強く生きてこられたという面があるので、その誰かを喪失することで誰にもなれなくなる、透明になってしまうという理屈はかなり妥当だと思いますね。となると次は、誰かのためではない、もっと別の生き方に価値を見出さなければならない。それが、ピングドラムを手に入れるということなのでしょうかね。

おパゲーヌス
2011年11月13日 14:07
>はるるさん
>聞くところによれば、ウテナは王子様に助けられることを否定する物語だとか。であれば今作では今後、モモカ王子のために生きる=王子の存在に依存する生き方を否定し、その先に進むという展開になるんじゃないでしょうか?もちろんヒマリのために生きる=ヒマリ依存という解釈です(昨日頂いたツイッターのレスより)

ここでついでに返信します^^ ちょっとネタバレになっちゃいますが、『ウテナ』は、確かに女の子が王子様に助けられることを否定します(ヒロインの自発的判断というよりは、そんな都合の良い救いなんて存在しないという、世界の仕組みによる否定)。ただしその代わりに、女の子自身が新しい王子様像を掴み取って絶望的な世界に戦いを挑む、というところまで話を持っていくのですよね。それが成功したか否かは別として、ですが。んで、そうやってヒロインが掴み取った、おとぎ話的ではない新たな王子様像というもの(これは男女の別とか関係ないと思っています)を荻野目桃果が体現しようとしている節があるのではないかと自分は思いました。言ってみれば桃果は、「キミのために生きよう」と言ってくれる古い王子様像とは違う姿を提示していて、彼女の本当に伝えたかったことを自覚することが、桃果依存からの脱却になるのではないかと考えています。そういう意味では、『ウテナ』と本質的なメッセージはそれほど変わっていないのかも。

いや、わかんないですけどw 桃果がラスボスとして登場したりとかありそーで怖いw

おパゲーヌス
2011年11月13日 14:13
>あるるかんさん
「私と一緒に生きて」と言わなかったのは、一見すると恋愛ロマンス風のシーンには見えるけれども、恋とか愛とかとは少し違う次元の話なのだと、訴えたかったのかもしれません。ピアノを聞いて云々という桃果の”救いに来た理由”も、なんだか後付け設定っぽい聞こえ方をしましたし。

夏芽は面白いですね。マリオさんを救うという目的は高倉兄弟や時籠ゆりとたいして変わらないのに、マリオさん一筋ではなく、一人の女性として冠葉のことを想っている。どっちが大切なの?と、イジワルな質問をぶつけてみたくもあります。

自分がマリオさんのためにすべてを投げ打つ覚悟をしていて、それがどんなに歪な生き方かというのを頭の良い彼女は冷静に分析できてしまうのでしょう、それが冠葉に対する発言に表れているのかもしれませんね。
おパゲーヌス
2011年11月13日 14:19
>ぽんずさん
たしかにハードル上がってますw 作ってる人はもちろんどんなメッセージを発信するかをちゃんと見据えてはいるのでしょうが、どんな格好で着地して見せるか、とても楽しみですね。

苹果が不安だというのはよく分かります。苹果の場合は、「私のためにいてほしい」という言葉を、桃果とはまた違ったニュアンスで(つまりもっと恋愛に比重を置いた感情で)語ろうとしたように見えましたが。いまはドラマの中心から少し外れて、客観的に昌馬たちの行動を見守ることのできる立場にいますが、この子が何を考えてどんな結論に達するのかというあたり、まだまだ苹果自身のドラマも波乱がありそうです。

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