輪るピングドラム 第20話「選んでくれてありがとう」

今回のは反則すぎるだろーー。ボロ泣き必至の傑作回だった。



あー。もうなんというか、放心状態ですよ。ウテナ最終話を見たときの、なんとも言葉に言い表せない、頭のなかにグワーーンと響きながら心臓がバクバク言ってるあの感覚に近いものを、ひさびさに体験させられた気がする。


どうあがいても絶対に覆せない物理法則みたいな原理原則によって、絶対に救われないことが確定しちゃってる生命ってあるよね。もちろん当の本人はそんな原則なんてお構いなしに必死に生きようともがくんだけど、傍から見てる人にとっては馬鹿らしくなるくらい当然に決まりきっている悲劇、むしろあがいてる本人だって薄々感じてしまっているくらいの運命。例えばそう、鳥籠に入れられた鳥が、餌も尽き水も無くなった状態で、人間どころか他の一切の動物に見つけられることもなく、雨風や日光からも遮断されたまぁわりと快適な部屋のなかで、絶望的に孤独なまま、ただピィピィとわめいたり羽根をばたつかせたりしながら、刻一刻と迫ってくる死の事実に抗い続けているような世界。そんな世界の中にいて、それでもソコから抜け出して確定した運命を変革して見せようとする主人公たち、なんていう風に書くと、それはわりと色んな作品で描かれているドラマなのかもしれないけれど、でもここまで絶望に彩られた世界を描き、しかもその虚構の中にすっごく切実にリアルな危機感や焦燥感あるいは諦めや失望を象徴させておいて、その世界を破壊しようと戦う人たちの姿を全力で見せつけながら、それでもなおその戦いが失敗に帰してしまう、あるいは成功したように見えてもその真実は誰にも分からないような結末に持って行って、さらにはそれを悲哀に満ちた悲劇としてではなく、明日を生きる活力の源泉として最高に力強く勇気と希望に満ちた晴れやかな感動のもとに紡ぎ出して見せるなんて、幾原監督のほかに誰がやってくれるというのか。


選ばれなかった子である陽毬は、昌馬によって救われた。それは、幼い日の、陽毬と昌馬の物語としては、疑いようのない勝利の結末だったはずだ。けれどそれから10年も経たないうちに、より絶望的な運命の中に彼らは叩き込まれてしまったわけだ。ここから再度の大逆転劇を、どのようなカタチで披露してくれるのか、昌馬・冠葉だけでなくすべてのキャラクターの全力闘争を待ち望んでいる。


とくに冠葉は、いままでは昌馬よりずっと真剣に陽毬を、そして高倉家を守ってきたように見えてきたけれど、実際には彼も高倉の本当の子どもではないことが今回明らかになった。ということは、昌馬と陽毬の物語のように、冠葉にもやはり、高倉家の息子として生きていく決意をしたその瞬間があったはずで、幼い日の彼にどんなことがあって、どんなことを考えてその決断に至ったのか、その経緯が明らかになるときを楽しみにしたい。


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それにしてもこの作品、「本当の家族って何だ?」という作り手からの問いかけが、回を重ねるごとに強く、鋭くなってくる。


前回からの夏芽真砂子との問答では、夏芽が家族という概念の定義に”血”のつながりを重視している点が浮き彫りになっている。昌馬と冠葉と陽毬は血がつながっていない、だから本当の家族ではないというわけだ。だが、夏芽真砂子のこれまでの生き様そのものが、すでに彼女自身の言い分を否定している。夏芽が冠葉に執拗に迫っていたのは、いままでは一人の女として冠葉を愛しているからだと思わせていたけれど、今回の回想シーンでじつは冠葉はもともと夏目家の子であったことが明らかになった。もし冠葉と夏芽真砂子が血のつながった兄妹であるなら、これまでの夏芽のアプローチの仕方は家族のあり方を大きく逸脱している。またかりにそれが単なるミスリードでしかなかったとしても、では夏芽真砂子が祖父を疎み、祖父をすり潰そうとしてきた(生命を奪うという意味でも、祖父の影を踏み越えるという意味でも)。血のつながった祖父を家族から除外するという言い分はそうそう成り立つものではなく、これまでの彼女の姿はむしろ”血”によって定義される家族像とは異なるものを求めてきたのだと評価されてもおかしくないものであった。そんな彼女が、血がつながっていないというただそれだけの理由で、昌馬や陽毬を冠葉の家族とは認めないというのは理屈に合わない。


一方で、人の手で意図的に作られる家族として、時籠ゆりと多蕗桂樹の一件が想起される。彼らは共通の目的(もしくは夢)に向かって一致団結し、家族になろうと決意した。もちろんそれは世間的に理想とされる結婚とは違う、愛に彩られることのない打算的な婚約であったのかもしれない。けれど、始めに愛があったかどうかというのは、家族になれるかどうか、それを維持できるかどうかという点に関してはあまり問題ではない。血によってつながれた家族が一生涯離れられないのに対して、ある時から家族になろうと意図して作られた関係は、人工物であるがゆえに、人の手によってわりと簡単に壊されてしまう。ゆりと多蕗は、共通の目的意識を保てなくなったことで、家族としての関係が終焉した。けれど世間にはもっとくだらない、些細な理由で、離婚に踏み切る夫婦もあるだろう。そうした例を考えれば、冠葉、昌馬、陽毬の三人で構成された現在の高倉家は、あるとき人工的に作られた家族であり、なにかのきっかけでその関係性を解消してしまうことだってあり得る。そんな危険と常に隣りあわせの兄妹であり、だからこそ彼ら自身の不断の努力によって繋ぎ止めておかなければならない。だが、努力しなければすぐに壊れてしまう家族なんて、本当の家族と呼ぶことはできるのだろうか。


さらに今回は、陽毬と眞悧の会話の中で、陽毬自身が抱えている矛盾や欺瞞がクローズアップされることになった。逃げる者と逃げる者の恋、という話だったが、家族という関係性を重視する昌馬が陽毬を妹として見ている今の状態は、たしかに陽毬にとっては、昌馬は陽毬を拒み、逃げ続けている。むろん彼らが血のつながった家族であったうちはそれで何の問題もなかったが、いまや陽毬は、自分を救ってくれた王子様、自分の運命と決めた人が、昌馬でるということを思い出してしまった。二人を本当の家族であるとあくまで主張するのであれば、陽毬はこの恋を諦めなければならない。ここで恋を追う者となってしまったら、陽毬は自分から、高倉兄妹はニセモノの家族だったと認めることになってしまう。そして心の表面では、陽毬はそれでいいと思っているようだ。けれどもちろん、彼女は昌馬を追いかけたい。妹ではなく女性として昌馬に恋したいと思っているはずだ。嘘から始まった家族の絆に縛られて、自分の本当の望みを無視して自分を欺き続ける。こんなに不毛で、意味不明な欺瞞は無い。けれどそれにしがみつかざるを得ないのが今の高倉家だ。この家族を、あくまで本当の家族だと言いたいのか、本当の家族ではなかったということにしたいのか、どっちがいいのかさえ分からずに、陽毬の心は入り乱れている。


同じような欺瞞のもとに、冠葉も暮らしている。彼の場合は目的と行動がそれなりにはっきりとしているから、本人自身にはあまり迷いはないように見えるけれども、しかし剣山・千江美夫妻の思想や言動を全肯定し、両親の思惑通りに行動することで「自慢の息子」と褒められている冠葉の姿には、やはりどこか危うさを感じる。高い理想に固執する親が横暴な期待を実の子に抱き、その期待通りに振る舞っているうちだけは愛されるけれども、親の理想を叶えられなくなった途端に捨てられ愛されなくなってしまう子どもの姿は、今作でもこれまで嫌というほど何度も見せつけられてきた。いま冠葉は、そのレールに乗って走り続けているように見える。彼が高倉の実の子でないとするならなおさらだ。




高倉家、荻野目家、時籠家、夏目家、多蕗家、そして陽毬の実の家族と、その他無数の家族・・・。今作で描かれてきたこれらの家族像のなかの、どれがホンモノの家族だったのだろうか? どれも違う? ではホンモノの家族っていったい何? ――いま物語が突き付けている問題提起は、じつに明快だ。けれどもその解答に至る道はまだ示されていない。優しい両親、不自由ない暮らし、変わることなく愛される子どもたち、といったイメージで想起される理想の家族像は、シリーズ前半部でとっくに偶像と喝破されている。けれど、血縁の運命に縛られることなく、愛や努力によって結び付けられたもう一つの家族の理想像も、ここにきてその実像が揺らぎ始めている。ただただ心に刻みつけられるのは、けなげにも親の愛を夢見続けながら、ほんの一握りの幸福さえ与えられずに透明にされていく、選ばれなかった子どもたちの悲哀と孤独だけだ。


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運命、それは得体の知れないもの。とてつもなく大きい、あるいは強いもの。我々の理屈や道理とはまったく別の次元に存在し、我々の想定し得ない判決を下す裁判官。こちらからは意志を伝えることが絶対にできないのに、向こうからは問答無用で干渉してくる絶対の権力。常にそこかしこから我々を包み込み監視している存在。恐ろしいもの、逆らうことのできないもの、逃れられないもの。


そんな運命に対する恐れが顕在化したモチーフは、今作においても随所に登場する。今回の「動物禁止」の張り紙は、その最たるもののひとつだろう。一見すると、納得のいく妥当なルールを穏やかに告知するだけのこの張り紙が、ルールの違反者に対してにわかに牙をむく様は戦慄を覚えるほどだ。「許されませんよ」という言葉選びがあまりにも秀逸で、わざわざこんな厭らしい表現を持ってくる作り手のセンスがたまらない。そして、捨て猫だけでなく陽毬さえも奪っていったあの決定的なシーンにおいて、「ルールを守って楽しい社会生活を送りましょう」と来たものだ。


「社会」というものは、しばしば「運命」と極めて似通っていたり、ほとんど同種のものとして捉えられる。というか社会は、運命を人工的に生み出したものであると言って良く、しかし作った本人たちのコントロールをとっくに脱して、まさに運命そのものの性質を発揮して突っ走る暴走自動車のようなものだ。今作の場合、もちろんそれは「こどもブロイラー」なるおぞましい施設の姿にもっともよく象徴されている。社会は、ちっぽけな人間が少しくらい振り落とされたって、かまわずにハイウェイを高速で走り抜けていく。そうして社会の部品として適合することなく、はじき出され振り落とされていった子どもたちが、あの工場で透明な存在にさせられているというわけだ。捨て猫と陽毬と張り紙は、またずいぶんと直接的に、しかもゾクっとするほどの残酷さで、社会とか運命とかいったものの得体の知れない怖さを描き出してくれていると言えよう。


このような運命が支配する世界で真っ当に生きていくには、社会の求めた通りの歯車としての境遇を甘んじて受け入れるしかない。しかしそれを拒否したり、そもそも最初からそのスタートラインに立つことが許されなかった者はどうすればいいのか。このハイウェイから転げ落ちて透明になってしまうか、社会のあり方を根底から作り直してしまうか、それとも何か別の道があるのだろうか? でもそれはいったいどのような道か?


この問題に答えを見出すことこそが、「きっと何者にもなれない者たち」に求められているのだろう。気付けばもうあと残り4話。冠葉や昌馬や陽毬たちがいったいどんな回答にたどり着くのか、あるいはこの作品に接した我々視聴者がどう作り手の問題提起に応えることができるのか。ここからのラストスパート、心して向かい合いたい。




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それでは、今回は以上です。


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この記事へのコメント

バツマル
2011年11月30日 01:20
初めまして。一ヶ月ほど前から閲覧させて頂いていました。

冠葉も晶馬も陽毬も、互いに相手と腹を割って話していないような気が私はします。冠葉は陽毬(と家族)を守ることを自分の使命と心得、晶馬は兄妹三人で平凡に暮らすことを第一に考え、陽毬はトリプルHへの憧れを忘れられずにいるけど、各人の想いを共有はしていないように感じます。本当の絆は、まだ結ばれていないのかも?
自分の信じた真実が他人にとっても同じ価値を持つとは限らないし、事実と異なることもあり得る。晶馬との関わりで信じるものを修正した苹果と対比することで、本来あるべき姿との歪みを比べられているように見えます。

こどもブロイラー関連は、子どもが絶望感から自殺を選ぶようになってしまった社会変化を浮き彫りにする演出だと観ています。運命の至る場所がスウィート・ヒアアフターとなるように、プリクリたちは介入しているのかな?
おパゲーヌス
2011年11月30日 20:18
>バツマルさん
はじめまして、コメントどうもありがとうございます。

冠葉と昌馬の考える”陽毬の幸せ”がけっこう違っているというのは、シリーズ前半から感じていました。冠葉は陽毬の命さえ救えばいいと思っているようだけれど、昌馬は(自分たち兄弟も含めた)陽毬の生きている環境そのものを幸福で満たしておかなければいけないと思っている、みたいな差異があったと思います。でも今の今まで、二人がその方針をちゃんと話し合うこともなかったし、陽毬が二人の兄をどう考えているのかも語られずじまいのまま、ここまで来てしまいましたね。

むろん家族であっても夢や生き方は様々だし、それを共有することが家族の絆であると断ずることはできなくて、むしろたったひとつの考え方を共有し合っている(それを目指している?)剣山、千江美、冠葉の三人の”親子”の姿が、今回はかなり浮き彫りにされていたように見えました。でもだからといって、ではどういう落としどころに持って行くのかがまだよく見えてこないのが、もどかしくもあり、また楽しみでもあります。

おパゲーヌス
2011年11月30日 20:19
>バツマルさん

こどもブロイラーは、自分の考えでは、狭い意味での”いまの社会”を見ているのではなく、およそ人類と言う種族の抱えている宿命そのものにまで視線を届かせる、概念的な装置として登場させていると見ています。

以前なら子どもは自殺をするはずがないと思われていたのに、現代では自殺に追い込まれてしまうくらいの絶望を子どもたちでさえ抱えている、この変化はいったいどうしたことか、という思索やメッセージもむろん含まれているとは思います(バツマルさんのおっしゃる社会変化はこういうことですよね?)。けれどそのテーマに向き合うには、数十年前と今とで何が変わったかを暴くだけでは終わらなくて、いったいいままで一度だって「本当の家族」「本物の人と人との絆」が確立された時代があっただろうか、という根本的な疑問にぶち当たらざるを得ないはずです。そしてだからこそ、かつてあったであろう家族像の理想や実像をことごとく打ち捨てたうえで、まだ未到達の地平にたどり着こうとする”姿勢”を描いているのが、今作の現状なのではないのかなと。

プリクリ様たちの役割はまださっぱり分かりませんけれどw 本当に宇宙外生命体だと思っていた時期もありましたっけ・・・。
バツマル
2011年12月04日 15:48
>おパゲーヌスさま
高倉家は、晶馬すら血の繋がっていない【家族】なのではないかと想像しています。

運命を意識させるガジェットは、リンゴや赤い糸だと観ています。モモカと眞悧を使って運命の受け入れ方を見せて視聴者に考えさせたいのは、本物の家族というよりは他人との繋がり(絆)だと思っています。
着地点は予想もできませんが、物語の残りを楽しみにしています。
おパゲーヌス
2011年12月04日 22:16
>バツマルさん
第21話でまさに、昌馬すら血がつながってないことが言及されていましたね。徹底してるなぁと思いました^^

これは勝手な想像ですが、家族もそうでない人も、結局は他人なのだという、すこし冷徹なスタンスで「絆」に向き合っているのではないかなと思っていますね。そういう意味での家族像を描くというか。

赤い糸は家族(血でつながったという意味での)ではなく、血の繋がっていない恋人や夫婦の絆・運命を象徴するものですよね。リンゴも同じかな。なのでそういう点から、仰る通り「他人との繋がり」に焦点を当てているというのは、絵作り・題材の中にちゃんと表れていると考えられそうですね。

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