中二病でも恋がしたい! 第12話(最終話)「終天の契約」

勇太の魔道パワー炸裂に惚れた! モリサマさんもクミン先輩も大活躍で、なんだかんだと楽しい最終回でした。



六花に眼帯を捨てろと言った時には、まさかその判断がこんなにも問題を拗れさせるとは思っていなかったのだろう。回を重ね、時間が経つごとにすれ違いが大きくなっていく二人の様子が、表面上はずいぶん素直ないい子を演じている六花の「らしくない」姿ともども、フラストレーションを掻き立てる。


そんな鬱憤を爆発させるようにして、自転車をこいで突っ走る勇太の姿は、王道演出の良さを余すところなく体現する。くみん先輩の言伝によって六花の中二病のなんたるかを完全に理解した勇太の決心。自身の肉体的精神的限界を遥かにぶっちぎる全力疾走のすえ、仲間たちに支えられながら六花を連れ去る王子様。そうした定番ながらじつにドラマティックな展開に、今作スタッフはもうひとつ、意外な仕掛けを盛り込んだ。勇太と仲直りしてもなおリアルに打ちひしがれる六花に、勇太は心の底から叫び声をあげて、とうとう”ホンモノの”不可視境界線を六花の眼前に出現させる。


妄想が現実に遡行することがあり得ないことを、今作はこれまで幾度も言及し続けてきた。それだけに、最終話でとうとう奇跡を体感する場面がやってくるというのには、ずいぶん驚かされた。むろんこのシーンが、勇太が隠し続けてきたダークフレイムマスターのちからの発現によるものなのか、それとも本気で叫ぶ勇太の心意気に感じた六花がかつての妄想力を取り戻したのか、その真実は伏せられている。けれども心のどこかで奇跡を信じたくなるような絶妙な塩梅に、今作の底流にある温もりを感じ取ることができたように思う。


思えば、一昔前のファンタジー作品にはたいてい、こうした温もりが流れていたように感じる。魔法なんてたぶん嘘だろうけれど、でも本当に存在してもいいかもしれないと、ちょっぴり期待させる曖昧さ。この曖昧さの中に、日々の生活を楽しむ醍醐味が潜んでいて、ファンタジーと呼ばれる作品の中には確かに、その醍醐味を的確につかみ取って、我々の目の前に披露してくれるものがあった(たとえばトトロとか魔女の宅急便なんかは、そうした魅力を凝縮したような作品だと思う)。『中二病』もまた、そうした温もりやワクワク感を提供しようとする試みのひとつとして捉えてみることはできると思う。


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それからやはりこの作品で重要なのは、「中二病は恥ずかしい」という命題を前提としつつ、そんな中二病患者たちにおずおずと、仲間に入れてくれと小声で頼みかけるような姿勢が貫かれていた点ではないだろうか。劇中でも語られていたように、どうあがいても過剰な自意識をなかなか捨てられないのがヒトの宿命みたいなものであるし、その自意識を積極的に肯定しようとする人々を、忌避しながらも心のどこかで羨む気持ちが生じることは確かにある。そんな羨みや憧れを、恥ずかしいことと切って捨てるのではなく、心の片隅にでも大事に育てておくくらいのほうが、ずっと正直で気楽な人生を送れるんじゃないか。と、そんなテーマのもとに描かれたストーリーだったと言えるだろう。


特定の色に染まっていないことがかっこいいと見做される傾向が、現代社会には確かにあるように感じる。そうした風潮は本来、自分の染まっている色を強く宣言することが是とされた時代への反省や反発からくるものであり、どんな問題にせよ主義主張をいったん引っ込めて即断せず、つねに多角的な視点から科学的に検証する姿勢を求めることは、それ自体は何も間違いではない。むしろその理想通りにいかないからこそ、いまだに強くそうした姿勢を求めようとしている節があるのではないかと思う。ただ、客観的で無色透明な姿勢を求めるあまり、本来はもっと主観的感情的に判断しても構わないことまで冷静さを求められたり、いちど世間に受け入れられた「客観的な判断」とやらを後生大事に信奉してしまうという本末転倒な状況さえあり、結果的に我々が本気で叫べる主観的なことといったら、好みの女の子(二次元)のタイプや性的嗜好くらいなものに限定されてしまっていると言っても、過言ではなくなりつつあるのではないか。


そうした人々にとって、他者からどう思われようが関係ないどころか、時には他人の迷惑も顧みずに好きなことを叫び続ける中二病患者のバイタリティは、とてつもない脅威に感じられる側面を持っている。小鳥遊六花の中二病は彼女自身の未整理な内面への対処であったのだが、その中二病が十花をはじめ彼女の親類に強いショックを与えていたことは、どこか暗示的ですらある。そしてその中二病とつかず離れずの位置に立って、自身の一部として取り込み楽しむ選択をした六花たちの姿に、構成員の画一性を求める社会の構造に反発心を抱える人々の心のよりどころを提示しようとする作り手の意図も、見え隠れしているような気がする。


今作の描く「中二病」がその本来の用語の意味を大きく離れているという指摘はあるけれど、そうであればこそなおさら、今作のスタッフが今作なりの「中二病」に込めようとした役割に注目してみるのが、より有意義な楽しみ方であると言えるのではないだろうか。


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とはいえやはりちょっと残念だったのが、六花の中二病を彼女の特殊な事情に引き寄せすぎてしまったことか。これはドラマとしてはもちろん心揺さぶるものがあるんだけれど、逆にあまりに六花個人の事情として描かれてしまい、「人は誰でも中二病」という結論にたどり着くにはやや強引すぎた。六花は六花で彼女の心のつっかえを中二病によって取り払った、では勇太や丹生谷や他の面々はどうだったのか。自意識過剰の変質としての中二病、という等式を採用しようとすると、それが六花の事情にそぐわないだけに、作品全体のテーマとして成り立たなくなってしまう。


なのでここはぜひとも、六花の物語が一区切りついたトコロで、今度は勇太たちの中二病を肥大化する自意識との兼ね合いのもとに描き出す、第2期シリーズの制作を期待してみたい。原作小説から半ば独立して魅力的なキャラやエピソードをふんだんに盛り込んだこのアニメ作品を、このままにしておくのは何だかひどくもったいない。トラウマに絡めなくても、シリアス展開を挿入せずとも、ただ彼らが中二病から卒業しきれずに現実社会とのギャップに振り回されているだけで、それで十分にドラマは成立すると思う。六花の言動に戸惑う勇太の姿ではなく、自身の内側から湧き出ずる暗黒パゥワーを抑えきれずにもだえ苦しむ勇太の姿、という構図でいろんなエピソードが見てみたい。このテーマとキャラクターたちなら、まだまだやれること、やるべきことがあるはずだ。


いや、それよりも何よりも、六花のドヤ顔がまだまだ見たい。ここ数週間のイイコちゃんぶった六花では物足りない! いままで散々丹生谷だのくみん先輩だのの魅力にほだされてきたけれど、最期にはやっぱりメインヒロインの存在感が最大の見所だったと気付かされた最終回。この物足りなさを、2期への願望と今後の京アニ作品への期待に変えて、2012年という年を締めくくりたいと思う。


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―― マヤの暦によって予定されし混沌と滅亡の宿命日に、闇よりの死者・妄想詩人これを記す。





















・・・・・・うん、やっぱ恥ずかしい!!! 








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これにて『中二病でも恋がしたい!』の各話感想は終了となります。どうもありがとうございました。


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