それでも町は廻っている 第12話(最終回)「それ町」&シリーズ感想

シャフト、さすが過ぎる。これほどの出来映えに仕上げてくれたのは実に嬉しかった。




・納得の最終話「それでも町は廻っている」


当然最終回に持ってくるだろうと思っていたこのエピソード。予想通り? 否、予想を大きく上回る出来だった。改めて、シャフトという会社の持つチカラをまざまざと見せつけられたように思う。


原作は人に借りて3巻まで読み、何が面白いのかいまいちピンと来なかったのだが、このエピソード「それでも町は廻っている」だけはとても強烈なインパクトを覚えたものだった。コメディには似つかわしくないという現実を、ネタではなくシリアスに、主人公に体験させるという発想。平凡な日常を特殊な輝きのもとに描きだそうと言う今作の基本スタンスをそのまま具象化したようなこのエピソードは、まさに作品のタイトルナンバーとして相応しいものだった。そしてこのエピソードを通して、ただのエンターテイナーとは一味違う、石黒正数という作家の個性に触れたような気がしたものだった。


アニメとは、言って見れば原作に対するひとつの解釈だ。自分が「それ町」の原作漫画を楽しめなかったのは、作品がつまらなかったのではなくて、これをどう解釈すべきなのか、自分の中でその方途が見出せなかったところに原因がある。それが、シャフトが映像化してくれたことで、アニメスタッフなりの今作の楽しみ方や解釈の仕方を提示され、それを納得して受け入れることでこの作品を心から楽しめるようになった。だから今作は、つくづく自分がシャフトの感性に毒されているなぁと実感させられた作品でもあった。


だから第1話を見た時点で、今回の臨死体験エピソードをどのように料理してくれるのか、楽しみで仕方が無かった。このエピソードを見るためだけにいままでの11話分を付き合ってきたと言っても過言ではない。そして実際に今回のエピソードを見て、首を長くして待っていたのは正解だったと、確信を持って言うことが出来た。最終回として、じつに納得の出来映えだった。




・生きたいと思うことが、生きているということ


今作らしい(または歩鳥らしい)茶目っけのもとに臨死体験を描いて見せた今回のエピソード。一部を除いては基本的にコミカルに展開されるいつも通りの作劇ではあるのだが、しかしそれにしては驚くほど真面目に、また独自の視点から、死というものを照らし出して見せた。


この、基本的にはコメディとして描かれている、という点が、このエピソードの何より好きな部分だ。死後の世界の珍妙な様子、そこで繰り広げられる平凡な日常風景、こんな題材の回でもちゃんとオチを仕込んでくる姿勢。あくまでいつも通りの面白さから軸をブレさせていない点が、その裏に潜んでいるシリアスなメッセージ性をより際立たせていると思う。死んでしまったことを大袈裟な身ぶり手ぶりで嘆いて見せるよりも、いつも通りの変わらぬ歩鳥の姿を描きながら、ふとした瞬間に自身の死という事実の意味を悟り、悲しみを覚える。この、さり気なく描かれた一瞬の転調によって、視聴者の意識がぐっと作品内部に引きよせられる様は見事だった。


歩鳥が体験したこの不思議な体験は、人が愛し愛されることの意味と価値を教えてくれるものだ。そして人が幸福に生きていくために必要なもっとも普遍的な要素が、そこには描き出されている。


好奇心旺盛で、独自の鋭い着眼点からこの世界の面白さを次々と発見してみせるのが、歩鳥というキャラクターの特徴だ。そんな彼女の目を通して提示された死後の世界は、いやに古臭い生活臭に満ち溢れ、役人によって円滑に(そしてケチくさく)管理された秩序ある社会。その上、ツッコミどころも含めて、現実世界とは異なる面もたくさん持ち合わせており、歩鳥は決して尻ごみすること無く、あっというまにこの世界を受け入れ溶け込んでしまった。ゲームセンターで遊ぶ歩鳥の姿は生きていた頃となんらかわりない幸福感に満ちていた。このままココに順応してしまえば、彼女は再び下界に降りてくることはなかったのではないかとさえ思う。


そんな彼女が、家族や友人や親交のあった者たちが予想以上に自分の死を悼んでくれていたのを見てつい泣きだしてしまうシーンは、第11話までの彼女のコミカルな日常風景を思い起こしながら、思わずもらい泣きしてしまいそうな場面だ。一度は死後の社会に大きな興味をもって順応しかけた歩鳥が、自分をこんなにも愛してくれていた人々の気持ちを知り、また自分がどんなにか彼らを愛し、皆で過ごすいつもの生活を愛していたかということを自覚した時、はじめてそこで、「もっと生きていたい」という心情を吐露することになったのであった。


歩鳥なら、たとえこの死後の世界でも、いままでと同様にのん気で楽しい生活を送ることができただろう。また、劇中では差し迫った夢や目標が語られていなかったことから、やり残したことに対して未練を感じているというわけでもない。あくまで彼女は、かつて自分がいたあの世界と、そこで暮らす人々を心から愛していた。それもはっきりと自覚していたわけではなく、漠然とそう感じていただけだったものを、死という現実によってようやく自覚したようなありさまである。それでも彼女ははっきりと、自分の生を大切に思い、それに強い未練を感じることになったのである。案内人の言う通り、もっと生きていたいと心から言いきれるのは、良い人生を送って来た証左である。そしてその幸福の秘訣は、歩鳥が何を見て涙したかという点に、はっきりと描き出されていたのであった。


「もっと生きていたい」と強く願った直後に、アナウンスが流れて地上に舞い戻ることができるようになったのは、役所の手違いみたいな軽いノリで描かれていたけれど、しかしとても印象的な場面だった。人の意志は、精神や肉体に時として奇跡のような効果を及ぼすことがあると聞く。この時も歩鳥は、医師からは絶望的な言葉が語られるような状態だった。そんな危機を軽々と乗り越えて見せた歩鳥の力強さは、生来の楽観主義と、日々の何気ない生活を心から愛しているところに由来しているのかもしれない。




このエピソードが、原作の構成を変えてまでアニメ最終回に回されたというのは、当然の判断ではあったと思うが、やはりとても大きなメリットがあったと思う。原作ではこのエピソードの後に発表されたいくつもの話を、すべて前回までに押し込んでしまうこと。それは、今作が一貫して描き続けてきたコメディを、幸福な日常風景と愛すべき人間達の物語として、すべてこの最終回の基盤として認識することができるということだ。


今作のコメディがすべて、今回提示されたようなテーマ性のもとに描かれているとは思えない。もっと素直にエンターテイメントとして描いているのだろうとは思う。けれど、その根底には共通した意識なりスタンスなりがあって、それがもっともよく象徴されているのが、今回のエピソードだと言えるだろう。逆に言えば今回のエピソードによってまとめ束ねられることによって、「それでも町は廻っている」という作品全体の志向性がはっきりと見えてくるようになる。そのための最終回であり、シリーズ構成だったのは間違いないだろう。




・シリーズ感想 シャフト的解釈の恩恵は大


改めて述べておきたいのが、アニメとは、解釈であるということだ。漫画なり小説なりを原作としたアニメ作品について考える時、そのアニメーションが、アニメ版スタッフがどう原作を解釈して見せたのかを提示する場であるということを、改めて痛感させられたのが、アニメ「それでも町は廻っている」だった。


先ほども述べたが、自分は原作を一度だけ手にしてみたことがあって、その時はこの作品の魅力をちゃんと理解することが出来なかった。つまらないとは思わなかったけれど、かといって積極的に肯定したくなるような入れ込み方は、させてもらえなかった。


それが、アニメ版第1話を見た時に、まるで電撃が走ったような感覚を覚えた。とても面白い、いったいこれはどうしたことかと、しきりに首をかしげながら画面に魅入っていた。第1話の記事で書いたとおり、そこにシャフトというアニメ制作集団が目指してきた地点、現在のシャフトのひとつの完成形を見出したと思った。その感想は今でも変わっていない。さすがに全ての話数を第1話と同等の熱意を込めて作られていたわけでは無かったようだが、それでも、今のシャフト(とくに龍輪直征を中心とした軸)における志向性がはっきりと読みとれたのは間違いないし、今後の作品制作にも少なからぬ期待を抱かせるものであった。


またそうした映像演出上の工夫とは別に、シャフトが今作を映像化する際に採用した解釈の仕方が、自分の肌にぴたりと合っていたという点が大きかった。原作で読んでいたエピソードもそうでないものも、自分のチカラでは発見・補完し切れなかったこの作品の魅力を十二分に提示してくれたアニメスタッフの手腕には、大きな感謝を捧げたい。こうしてアニメ版を見た今なら、あらためて原作に向き合っても、存分に楽しめるのではないかと思う。




原作とアニメは、しばしば視聴者の意識の中で対立する。原作既読者はアニメのやり方が間違っていると指摘し、原作未読者はそれを聞いて、ではアニメを楽しんでいる自分の意見はどうなるのかと首を傾げる。原作既読者がアニメ版に最大の満足を感じる事例が指折り数えるくらいしか見当たらないほど、この軋轢はアニメ視聴者の間では日常茶飯事の光景と化している。


しかしそもそも、ある作品を読んだ時に、すべての人が同じ解釈をするということは絶対にあり得ない。10人いれば10通りの解釈が生まれるのが当然である。アニメスタッフは、そのうちのひとつの解釈の試みを提示しているに過ぎないのであって、作り手が悪意を込めて制作しているので無いのなら(そんな事例はひとつも知らない)、アニメスタッフが自分達なりに原作と真摯に向き合い、探究して、再構築して見せるのがアニメ化という作業だ。たとえどんなに原作通りを心がけている作品でさえ、この工程は必ず行われている。アニメは、様々な制約に縛られながらも、最大限に作品の魅力を引き出せるよう、創意工夫が凝らされているのだ。


アニメ「それでも町は廻っている」は、話数の順序を入れ替えた他は極力原作通りの展開を各エピソードにおいて採用していたと思うが、同時に、シャフトが到達しようとしたアニメーションの最先端を提示しようとする試みとして、原作のくびきを脱して極めて自由度高く演出されたフィルムに仕上がっていたように思う。それは実験作ということではなくて、今のシャフトのやり方(「化物語」という極限に到達してしまったシャフトが、それとは異なる方向性で探り当てようとしている演出の方向性)が、この作品の映像化にマッチすると考えての、むしろ安全策と言えるものだと思う。新房監督が語っているように、シャフト演出はただの実験精神の発露などではなく、合理的かつ必然的に構築されているひとつの理論である。その事実を「それでも町は廻っている」において改めて実感させられたという印象で、作品の作り方としては実に手堅いものだ。なぜなら今のシャフト演出は、作品選びさえ間違えなければ、自分たちのフィールド内部に留まったまま十分に面白い映像フィルムを仕上げることができ、しかもそれが他社とは大きく異なる独自性を獲得できるのだから、その範疇で作れる「それ町」は、もともと安全圏内の作品だったとさえ言えると思う。


このような安全さを重視する傾向が強い最近のシャフトには、ファンとしては少々物足りなさを感じてはいるのだが、しかしこれのおかげで、「それ町」という作品をシャフト的解釈によって料理することができ、これだけ面白い作品として仕上がっていたのだから、自分としては大いに高く評価したい。




シャフトの今後については、「それ町」や「荒川」のような傾向の作品が、今後も定期的に作られていくのではないかと予想している。言って見ればこれはシャフトの”勝てるパターン”であるから、あえて崩す必要もないだろう。まさにその延長に位置すると言って良い作品「まりあ†ほりっく」の2期が制作決定されたという話からも、こうしたシャフトの手堅い戦略は引き続き行われると見て間違いないだろう。


しかしそれだけでは、ファンとして物足りないのはもちろんのこと、多くの視聴者からもすぐに飽きられてしまうはずで、だからこそシャフトはシャフトらしく、フィジカルの限界を大きく越えてでも高みを目指そうとする作品を、輩出して欲しい。これまでも、安全作とリスキーな実験作とを同時並行的に発表してきた会社であるから、この点に関しては大いに期待している。とくに来期放送予定のオリジナル作品では、挑戦のシャフトの姿を存分に堪能させてくれることを願いたい。


今後も、シャフトの動向には目が離せない。「それ町」で見せてくれた仕事ぶりをしっかりと脳裏に焼き付けておきながら、今後の彼らの活躍に胸を膨らませておこう。




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それでは、これにて以上となります。どうもありがとうございました。


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