輪るピングドラム 第1話「運命のベルが鳴る」

もし運命があるのだとしたら、僕はこの作品に出会うために、アニメを好きになったのかもしれない。そうだったらいいな、という話。


残念なことに「ウテナ的な作品」じゃないんです。どっちかというと「ペンギン的な作品」なんです(・⊝・) 
――2011年6月26日 幾原監督のツイートより



待ちに待った、なんていう言葉じゃ、幾原ファンの心境を正しく言い表すのは難しいのかもしれない。『少女革命ウテナ』以来、とうとう幾原邦彦が、TVアニメの監督としては14年ぶりとなる新作を世に問う日がやってきた。


自分は、『セーラームーン』の頃はまだ本当に子どもで、「あんな女の見るアニメなんか恥ずかしくて見てられるか!(←そのじつすげぇ見たかった)」なんて心理も働いてまともに見た記憶はほとんどない。また『ウテナ』にしても、いちおう生で視聴してはいたけれど、1997年当時はまだ精通も来ていない年齢だったため、あの魔力的な作品のスゴさなんてちっとも分かっていなかった。高校生になって、ヘッセ『デミアン』に傾倒した直後のころに”再会”したことで、はじめて『ウテナ』の虜になったのが、自分のアニメファンとしての原点である。


そのような中途半端な来歴の自分が、幾原監督作品のことを知ったように語る気は毛頭ない。だから、冒頭に掲げさせていただいた幾原監督の冗談めかした、しかし意味深な発言を前にしては、やはりここは『ウテナ』の残滓を完全に振り切って視聴しなければならないと、そんな決意を持って今回、この『輪るピングドラム』に臨ませていただいた。


だってそうでしょう、いつまでも『ウテナ』に縛られていては、視聴者にとっても、そしておそらく幾原監督にとっても、なんの生産性もあるはずがない。卵の殻は破られなければならない。生まれ出ようとする者は、ひとつの世界を破壊しなければならない。生まれ出た鳥が飛翔し目指す先はどこか、幾原監督とウテナファンにとっての神アプラクサスがどのような姿かたちをして我々を迎え入れようとするのか、その一端を垣間見せてくれなければ、12年ぶりの監督作品としての意味も意義もないだろう。


『輪るピングドラム』がどのような航跡を描き、どこにたどり着くのか。それが幾原監督にとってどのような意義を持ち、アニメ視聴者に何を考えさせ、そしてアニメの歴史にいかなる影響を及ぼすことになるのか。我々はいま、伝説が生まれる瞬間を目の当たりにすることになるのかもしれない。


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「運命って言葉が嫌いだ」



まずは、第1話「運命のベルが鳴る」の感想をつらつらと書いておきたい。


冒頭とラストを、昌馬と冠馬の二人による「運命って言葉が嫌いだ」とのセリフで挟み込んだ第1話。昌馬のそれは、理不尽に人の幸不幸や生き死にを操る運命への嘆きの言葉であり、主人公たちがこれから辿ることになる数奇な人生を予感させるもの。冠馬のそれは、人がシンプルでもなく美しくもない姿で創り出された不可解さと、それでも自分たちを縛ろうとする運命への呪いの言葉であって、昌馬の予言めいたセリフよりはずっと卑近で切実な想いと物語の波乱を感じさせるものだった。この二人がひとまず提示した主題に対して、次回、陽鞠がどのような回答を用意しているのか。それが物語の方向性や主題をより明確にするのであろうから、楽しみだ。


Aパートは、しきりに奇抜であったり目新しかったりするデザインや演出が画面中に取り込まれており、目を楽しませてくれる。モブキャラを極度に記号化するのはシャフト作品に限らずすっかりお馴染みとなった演出だが、今作の場合は単なる簡略化やデザイン性重視という意味の他に、アニメを通して世界を再構築してみせる上での何らかの方針の一環なのかもしれない。モブ以上に記号化されている駅や路線図の描写が、この作品のひとつの”顔”であるらしいのも、何らかの強い意図を感じさせる。それでいて、例えば高倉家の部屋の様子などは重度に装飾過多で、しかも多分に幼児時代の趣味を引きずっている。水族館にいたペンギンもやたらリアルで、普通、認識票まで描くか? と思う。


第1話を見た限りでは、主人公3人の心象と密接にリンクした”内側の世界”と、彼らにとってあまり関係のない”外側の世界”を、あからさまに分離して描いているような印象だ。ただ、その”外側の世界”的な手法で描かれている電車関連の描写が、この作品において非常に重要な意味を持っていそうだというのは面白い。OPも含めて何度も意識させられた改札口や、電車内の広告「本日の標語」、CM前後のアイキャッチ、そして何より、診察室回想シーンへの導入も電車の発車ベルと電光掲示板を用いて強烈なインパクトを残しているのを見ると、電車(劇中ではTokyo Sky Metro となっていた。もしかして空飛んでる?)の存在は作品を解き明かす鍵のひとつとなりそうだ。


あくまで想像だが、色彩豊かな画面が主人公たちの内側で、シンプルな記号的画面が外側の世界であるというのが正しいのであれば、電車というのは内側と外側のアクセスに用いる道具であることから、運命とか宇宙とかいった概念と対峙する主人公たちにとって、外的世界からの強制的な干渉を象徴するものとして、電車という装置が機能することになるのかもしれない。少なくともすでに第1話においてさえ、電車は妹の死という不幸に間接的に関与していると言えるし、診察室シーンへの導入として鳴り響く発車ベルは、乗り遅れた者を放置してでもダイヤ通りに運行される電車の性質を、個々の人間の不幸や死など何も問題とはならない社会や運命の残酷さになぞらえているのは間違いない。誰が引いたのか分からないレールの上を、強引に、横暴に、しかし極めて冷静に、猛スピードで駆け抜けていく機械仕掛けの乗り物。誰かが乗り遅れたり、客車から投げ出されたり、あるいは車輪に巻き込まれて死んだとしても、何十億という人間たちを乗せて時間通りに走り抜けていく。そうしたイメージを、運命もしくは宇宙という概念に付与しようするのは、これはきわめて幾原監督らしい語り口ではないか。


また、作中で語られる宇宙というキーワードも、電車と同じような意味で、主人公たちを残酷に不条理に縛り付ける存在としてまずは語られていると思われる。やはり決定的なのは診察室に置いてあった天球儀だが、高倉家の居間にある蛍光灯の傘も、亀と象に支えられた須弥山という、古代インドの地球観をなぞった形状となっている。この傘の象の部分は、くるりと巻いた飾りが象の鼻を連想させるものだと思うが、さらに直接的なモチーフとしては象の湯沸しポットが登場し、傘のヒモにぶらさがる三匹の親子亀とともに、高倉家の室内の空間を地球を中心とした小さな宇宙になぞらえている。妙に煌びやかで子供っぽい内部装飾の混沌ぶりも、居間の中心に地球が浮かんでいるのだと考えれば、なるほどいかにも宇宙然とした印象がある(本当はさらにそれを蛇が支えているんだけれど、ちょっと画面から明確な蛇の要素は判別できていない。窓際ににょろにょろと長い飾り物はあるけれど、あれを蛇と断ずるのは苦しいかw)。またその室内のシーンにおいて、ソファで寝転ぶ陽鞠を見下ろすように撮影したカットで、鳥籠と蝶の飾り物が強い存在感を示しているのは、なかなか暗示的だ。


なお、リンゴ=宇宙説を唱える子供が登場したが、自分はあまり『銀河鉄道の夜』の内容を覚えていないのだけれど、愛のある死を選択した者へのご褒美として、この世界とあっちの世界をつなぐリンゴ(=掌にのる小さな宇宙)がもらえるという話は、直接的にはBパートの展開に対する前振りでありながら、同時にこの作品そのものが取り組もうとしているテーマをも象徴しようとしているのかもしれない。リンゴと言えば、『少女革命ウテナ』において”世界を革命する”という行為を象徴するもっとも早い演出のひとつとして有名なモティーフであり、『ピングドラム』でもどうやら重要なキーアイテムとなってくるようなので、注目しておきたい。


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生存戦略、しましょうか



さて、問題のBパートだが……えっと、どうしてこうなったwww


まぁ、不安や憶測をさまざまに掻き立てるものの、やはりなんとなく地味でありがちなストーリーという印象のAパートだったので、この270度の急速回頭は期待通りの予想外といったところ。どシリアスに展開していた矢先の「せいぞん、せんりゃくぅー!」という掛け声が妙に気の抜けた印象と、双子兄弟の可笑しな驚き様、弟に先を起こされて恥ずかしながらも陽鞠に抱き着いた冠馬の可愛らしい姿に、突然カチコチに凍ったペンギンが配送されてくるというナンセンスなシチュエーション。ていうか凍らせて大丈夫なのかよペンギンどもっ!?w 傘を届けに来たペンギンがバタバタと追いかけてきたシーンには、もう腹を抱えて笑い転げてしまったw


そして、もちろん、その後の予想外すぎる展開には本当に度胆を抜かれてしまったわけで。家庭に謎の生命体がやってくるなんてシチュはまだアニメ漫画等ではお馴染みのものだが、まさかそこからアイドルソングにのせて宇宙船だかロボットだかよく分からない舞台装置が起動し、ペンギン女王(?)が宝塚ばりにかっこつけたポーズを決めながら股間を強調つつ登場しようとは、誰が想像できようかw


むろん『ウテナ』や『タクト』のファンなら、この手の物語展開や映像演出は、馴染みがありすぎてニヤニヤが止まらないところだろう。ダサかっこよくてインパクト絶大な掛け声と同時に大がかりな機械装置が起動、主人公たちをまったくの異次元に連れ去って絢爛豪華な舞台空間が画面いっぱいに広がってゆく。そこで交わされる言葉や行為は、意味深で、かっこよくて、詩的で、またエロティックだ。これだ、こういうのが見たかったのだ!! 


「生存戦略、しましょうか」との言葉とともに、陽鞠の服は脱げ、彼女は冠馬の胸に手を伸ばす。生存戦略という言葉の持つ意味に加え、兄妹という背徳感も手伝って、このシーンのエロさはすごいものがある。影絵演出、胸から取り出したる光、失神するほどの快楽、画面いっぱいに広がる植物の赤と黒・・・。『ウテナ』を連想するなというほうが無理があるが、それでもやはりピングドラムはピングドラムなりのやり方でもって、この、まだ何が起こったのかよく分からないながら決定的な何かが起こったのだということは感じさせるシーンを、作り上げることに成功している。もし今後このシーンが各話構成のパターンに組み込まれるのであれば、この意味不明なシチュエーションがどのような役割を持っているのか、じっくり考えながら今後の展開を楽しみたいところだ。


ピングドラムを手に入れるのだ、という指令(?)が何であるのか、その具体的なところも今後近いうちに明かされるであろう。いちおう現段階で想像できる範囲で考えるなら、女王に胸の奥を引きずり出された冠馬は、実の妹に欲情するという禁断の果実の味を、はっきりと噛み締めたのではないかということか。Bパート冒頭において、陽鞠の薄幸の運命を「俺たちに課せられた罰」だと語っていたところを見ると、当然、昌馬も陽鞠を妹以上の存在として見ているのだろうし、その時点で十分に自らの罪な欲望を自覚していただろうとは思う。だが、冠馬が改めて自分自身を「本当に人なのか」と問いかけ、口づけという決定的な行為に及んだというのは、”生存戦略”なる行為を”した”からこそのものだったのではないだろうか。


このあたりの事情や、主人公の彼らに課せられた使命については、どうしても次回以降の展開で語ってくれるのを待つしかない。しかし少なくとも、なんだかとんでもない作品がはじまってしまったぞ、という強い印象をしっかりと残して第1話が届けられたという事実を、嬉しく、そしてますますの期待感を持って受け入れることになったのだった。



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人は、何のために生まれるのか。



さて、第1話の時点で時期尚早とはいえ、次回からまた急展開を迎えてくれてもいいように、事前に今作のテーマを推測して、置いてけぼりを食わないように身構えておきたい。


たぶん、幾原監督が彼の人生においてもっとも切実に希求し思索し続けている問題というのは、青年時代からなにひとつ変わっていないのではないかと思う。それは監督自らの思索や創作活動によって常に探求されてきたものであろうし、『ピングドラム』という作品においても変わらずに、いやむしろいっそう強く打ち出されているテーマではないかと思う。それは作中でも語られている、人は(自分は)何のために生まれてくるのか、何のために生きているのか、といった言葉におおよそのところが集約されるであろうが、その背後に存在している思索や想いを表現するのは数語の言葉では絶対に不可能で、だからたくさんの思想家や哲学者や宗教家や芸術家が、自分たちなりのやり方で追求し、表現しようと試み、そして失敗してきたものだ。


自分は、アニメはとっくに少年少女たちの専有物ではなくなり、ひとつの芸術分野として確固たる花を咲かせている現在においては、そろそろ、そうした実存哲学的な思索や葛藤に真っ向から取り組む作品が出てこなければならないと思っていたし、そういう点で『少女革命ウテナ』をアニメ作品の最先端・最高峰に位置付けて考えていた。エヴァやウテナが発表されてからすでに十数年のときが経ち、その間あまり満足にこの手のテーマを扱った作品が現れず、たまにこれに取り組む姿勢を垣間見せたとしても到底『ウテナ』ほどの深みにまで踏み込んではくれなかったのが現実であった。そこで、いよいよ真打ちの登場というか、改めて幾原監督が、現代日本においてドストエフスキーやヘッセらの系譜を受け継ぐ者として取り組もうとするのが、『ピングドラム』という作品なのではないかと思う。


系譜を受け継ぐ、などと軽々しく書いたが、ことはそう生易しいものではない。過去、深い思想を備えた偉大な作品が登場した際、作家の深い精神的闘争が行われたのはもちろんのことだが、それを娯楽として発信し、若者たちに電撃的な感銘を与えることができて、はじめて彼らの作品は古典として歴史に名を刻むことができたのだ。仮にヘッセに憧れたとして、幾原監督が『ウテナ』においてヘッセと同じことを述べようとしていたら、とてもではないが歴史に残るような作品にはならなかっただろう。幾原監督と彼の旗下のスタッフが、彼ら自身の中で思索と葛藤を繰り広げ、作品テーマとその表現法を一から組み上げることで、はじめて傑作が完成したのだった。


仮に幾原監督が、『ピングドラム』を単に娯楽として楽しめるだけでなく、また売り上げを稼ぐためだけでもなくて、この作品に作り手としての魂を込めようとしているのなら、あるいはこの作品を持って過去の代表作を乗り越えようと戦うのだとしたら、それは本当に大変な事業になっていることだろう。娯楽作品という点では大衆に開かれた面白さを備えていながら、それでいて監督やメインスタッフによる極めて私的な思想的葛藤の告白の場。このような相反する二つの役割をひとつの作品に担わせるということが、どれだけの意義と価値を有していることか。おそらく幾原邦彦という人物は、この難題にもっとも真剣に挑戦しているアニメ監督の一人だ。だから我々視聴者も、せめて一握りの人間でも良いから、作り手が作品に込めようとしている魂に触れる努力をしなければならない。(自分の記事がその一助となれば幸いなのだが、自分もこればっかりは自信がありません^^)




それにしても、本記事冒頭で紹介した幾原監督の発言、「ペンギン的な作品」という言葉には、いったいどんな意味が込められているのだろう。そして幾原監督は、この作品を通じて何を考え、何を発信しようというのだろう。


ペンギン的な作品、という発言。「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という決め台詞。運命とか、宇宙とか、人の生まれる意味などといったキーワード。そこには、この作品の主題の尻尾が見え隠れしている。まだまだなんだかよく分からないけれど、しかしなんとなく思索の糸口が捕まえられそうな、ぼんやりとしたとっかかり。そこから想像を繰り広げることが、正解不正解を問わず、視聴者が作品の魂に触れようとするもっとも基礎的な作業となるはずだ。


おそらく、ペンギンとは「何者にもなれない者」の象徴ではないだろうか。ペンギンは言うまでも無く鳥類で、これは科学的に疑いようのないものである。だが、我々の一般的に想像する鳥とはまるで異なり、空を飛ぶ翼はなく、陸上ではまるきりヌイグルミのような生き物で、しかしクジラやイルカのように完全に海中で暮らすほどには覚悟を決めているわけでもない。泳ぎ方は魚とは異なり、空中を飛ぶように泳ぐのだと評する人も多いが、あの運動を翼を持った鳥が空中でやってもすぐに墜落するだけだ。ペンギンはあくまでペンギンとして、泳ぎ、歩き、生きている。


もとは鳥の仲間として自由に大空を駆け巡っていたであろう彼ら。いまでは鳥とも魚とも似つかない独特な生態や容姿で、わざわざ寒冷地帯の荒野を選んで生息している。考えてみればこの姿は、世俗の人間社会を去って荒野に逃げ延びた隠者のようではないか。それも、自ら好んで出家したというよりは、鳥社会から落ちこぼれたグループが仕方なしに自分たちなりの生存戦略を確立しようとあがき、その結果として行き着いたと考えるほうが納得できる。ペンギンは、不条理な運命にもてあそばれ、急発進した列車に乗り遅れた鳥たちの、哀しくもしたたかな姿であると言えよう。


食物連鎖(宇宙のルール)の頂点に立ったり、あるいは他のライバルを蹴落として生き残ったりするだけの強さを持たなかったペンギンたち。彼らの生存戦略が、空から逃避することであり、肥沃な森林地帯を捨て去ることであり、しかし決してあきらめずに運命と戦い続けることであった。もし”ペンギン的な”という発言にこうした意図が込められているのなら、そのペンギンたちに選ばれた高倉昌馬・冠馬・陽鞠、あるいはまだ未登場のキャラクターたちが、いかなる宿命を背負い戦っていくのか、おぼろげながら想像できるのではないだろうか。


決められた社会のルールや、生き物として課せられた運命なるものに対抗しようとした偉大なる鳥類に、ジョナサン・リヴィングストン(『かもめのジョナサン』)がいる。今作があの霊感豊かな孤高のカモメを意識しているかどうかは知らないが、おなじ鳥類として、またカモメ以上に運命の名のもとに虐げられながら生存し続けてきた者として、”何者にもなれない者”ペンギン達の奮闘を眺めてみるのも、あるいは面白いかもしれない。




――で、ドラムってのはなんなんだろうね?w



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それでは、今回は以上です。


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