異国迷路のクロワーゼ 第4話「水明かり」

アリス・ブランシェによる、湯音とのファーストコンタクト。二人ともお人形さんみたいで可愛いなw



今回は予告通り、成金お嬢様にして東洋マニアのアリスが、湯音に会いに来るお話。


ろくに話も聞かないまま敵対意識ばかりむき出しにするクロードも大人気ないが、成金らしい短絡的な思考パターンのアリスにも情状酌量の余地はないw 幸いなのが、アリスが湯音に引けを取らないくらいにアニメ映えする美少女だということ、お姉さんなどを見るにブランシェ家全体が悪徳成金というわけではないらしく、むしろアリスの嫌味な言動は子どもらしい無邪気さゆえのものであるらしいこと。ほとんどすべてのキャラクターを善意のもとに描き出すらしい今作であれば、アリスがじきに湯音やクロードの心意気に感化されていく展開は、当然考えられるだろう。いまは、ちょっとやんちゃな女の子くらいに思っておけばいいかもしれない。


アリスの言動の中での注目点は、アリス自身がどんなに東洋(とくに日本)への憧れを口にしようとも、結局世界の中心はパリであり、この街の”一番”の地位が揺らがないという大前提があってはじめて、他国への関心が湧いてくるのだということだ。おそらくこれは当時のフランス上流階級の当然の考え方であり、ひいては西洋列強に共通の考え方だったのだろうとは思うが、あくまで対等な視点から尊敬を持って異国文化と接しようとするオスカーやクロードとは、大きく異なる態度と言えよう。


前回の記事にも書いたことだが、きっとアリスにとっては、日本文化=日本産の美しい調度品や美術品であり、それをコレクションすることが上流階級のステータスになるのだという部分が非常に大きいのだろう。しかし『クロワーゼ』という作品が”日本再発見アニメ”であるとするなら、そこで最大の関心を持って描き出されるのは、古い日本の珍しい品々ではなく、そこに息づく日本人の心のほうである。これは第一話からすでに提示されていたテーマだったが、日本の土産品にしか興味のないアリスという視点を通すことで、よりはっきりと、湯音の中に見出される日本の失われた精神文化が描写されてくることになるのではないか。


たとえば、土下座ひとつとってもそうである。現代、我々にとってみれば、土下座を実際に見ると少し滑稽な印象さえ抱く場合が多いだろう。記憶に新しいのは、食中毒を出した焼肉屋の若いオーナーが取材陣の前で甲高い泣き声を上げながら土下座して見せたシーンなどだろうが、あれをテレビで見た我々は、屈辱的なポーズであるからこそ真摯な想いがこめられているはずの土下座を見て、むしろ滑稽で、胡散臭くて、場違いな印象を抱いたのではなかっただろうか。土下座までせずとも、社会的責任を問われた”お偉いさん”が口にする謝罪には常に懐疑的にならざるを得ないのが、日本社会の現状である。それは、謝罪の姿や言葉があくまで表面を取り繕っただけのパフォーマンスに過ぎず、そこに込められているべき心というものがまったく伝わってこないからだ。土下座(もしくはそれに通じる謝罪のポーズ)は、いまや形骸化している場面があまりにも多い。


それに対して、すでに幾度か描かれた湯音の土下座には、姿勢の美しさや、ありありと見える不動の決意とも相まって、心の底から何かの想いを伝えようとする強い意志を感じるのではないだろうか。相手の気持ちやプライドを最大限に尊重したうえで、それでも絶対に曲げられない”筋”を通すための嘆願。言葉で取り繕ってしまっては伝えられない想いを、無言の行為によって示すということ。「モノではなくココロ」というテーマが、ここにも端的に表現されている。




文化とは何か。それはカタチだと思う。工芸品にせよ、仕草や習慣にせよ、文学や音楽や芸能にせよ、目で見て、手で触って、耳で聞いて・・・、そうした五感によって感知される、カタチあるものに集約されているのが文化というものだと思っている。そしてそのカタチは、文化を形成した人々の人間性が如実に表現されているものでなければならない。カタチあるものを通して自分たちの心を表現したものが民族のアイデンティティに繋がるのだろうし、逆にカタチあるものによって規定されることで、人はその血筋以上に、同じ文化を共有する人々のコミュニティに溶け込んでいく。心を表現し、心を形づくっていく、それが文化というものだというのが、現在のところの僕なりの考えだ。


だから、文化として形成されているカタチが崩れたり失われたりすれば、当然、父祖伝来の精神性についても損なわれるだろう。ようはそれらのカタチは、父母から子や孫へと受け継がれるべき心の、入れ物なのだ。たぶん、懐古主義のもとに語られる伝統文化への憧れや郷愁といったものは、かつてあったカタチが失われてしまったという事実を指摘するだけでなく、その入れ物によって運ばれてくるはずだった精神性までもが零れ落ちて無くなってしまったことを嘆いているのだと思う。それが本当に必要なものであるのかどうかは置いておくとしても、カタチを通してココロが見えてくる文化というものの性質がそこにはよく見出せるだろう。


湯音というキャラクターが、まだ近世の価値観を色濃く引きずっていた往年の日本の文化を(多分に脚色されてはいるだろうが)体現することで、失われてしまった当時の日本の心を掘り起こそうと努めていることはたぶん間違いない。湯音や、彼女の周囲の人々が織りなす心温まるエピソードの端々には、そうした意図というか意識が見え隠れする。この大切なメッセージを、よく注意して聞き分けられるように気を付けていきたい。




湯音が生きていた頃から100年以上たった現在、日本は色んな問題を抱えているとはいえ、まだまだ、世界でも有数の大国として存続し続けている。これは我々日本人にとって大変幸運なことだし、それを可能にした先人たちの努力には心より敬意を表したい。そして一方で、日本のように恵まれてはおらず、伝統文化が失われ、民族がほろんだり、より大きな文化の中に吸収合併されてしまうような事例は過去はもちろん、現在未来においてもたくさん起こってくるであろうことを、常に心にとどめておきたい。自分は、縁あってベトナム北部の少数民族の村に社会見学のようなかたちで訪れたことがある。そこでは、文字を持たないがために貧困にあえぐ村民のために、ベトナム語の識字教育が行われていた。それは彼らが都会に出て職を得るには絶対に必要なことで、それ自体は良いことなのであろうが、しかしそのベトナム語教育が強力な国家主導のもとに行われ、しかも都市と農村をつなぐインフラの急速な整備と連動して行われているのを見て、ここにひとつの文化の危機が到来しているのだということをまざまざと見せつけられた思いがした。もちろんそこに国家組織の悪意(少数民族同化政策的な?)があるのだと短絡的に決めつけるのは暴論なのかもしれないし、よく調べもせずにあまり大げさなことを言ってはならないと思うけれど、当時高校生だった自分には強烈な印象をもたらした経験だった。


湯音の生きていた日本と、現代の日本には、大きな断絶がある。けれど、具体的にそれがどんな断絶で、何と何が異なっていて、どんな影響を及ぼしているのか、僕らはよく分かっていない。ひょっとしたら学問の分野では盛んに研究されているのかもしれないが、大衆にとってはあまり関心の無いことだろうと思う。そこに、ほんのわずかでも、なにがしかの波紋を投げかけてくれたら・・・。湯音の優しくも力強い姿が我々に感動をもたらしてくれるのなら・・・。そうしたら、可愛い女の子を可愛らしく描くというだけでも素晴らしい今作の価値を、何倍何十倍にも高めてくれるに違いない。そんな作品のパワーを、次回以降も今まで通りに発信し続けて欲しい。



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それでは、今回は以上です。


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