花咲くいろは 第25話「私の好きな喜翆荘」

親子三代そろい踏み!! これが見たかったんだ!w



横暴とも言える女将の態度に怒り心頭の喜翆荘メンバー。シリーズ中かつてない危機感をもって描かれたこの両陣営の対決にあって、四十万の女の血を引くものとして女将の薫陶を受けてきた緒花が、ぼんぼり祭りの手伝いに出向いたという事実だけをもって敵扱いされてしまうのは、可哀そうとはいえ仕方のないことだったかもしれない。がむしゃらに働いていただけの緒花にとって、突然空中に放り投げられたかのような浮ついた心理状態をまだ引きずっていただけに、大好きな喜翆荘からはじき出されるような格好になってしまったのは相当こたえたに違いない。いつもコロコロと表情を変えるのが彼女の特徴ではあるが、それでも今回ほどぐにゃぐにゃと微妙なニュアンスの顔になって、とくに視線が泳いでしまっているのは、緒花の不安とか不満を、セリフ以上に雄弁に物語っていた。


喜翆荘の人たちにとって、仕事とはイコール、女将に認められることだった。女将は口を酸っぱくして「お客様が第一」と言い続けてきたのだが、それを心から学び取っていたのは結局、緒花だけだったのかもしれない。いままではそれでも、客のことを第一に考える女将が強力なリーダーシップを発揮してきたから、喜翆荘は喜翆荘であり続けてこれた。しかしひとたび女将の指揮から離れてしまえば、女将に認めてもらうことを目標としてきた従業員たちの視線が、打倒女将という方向に凝り固まってしまうのは当然の帰結だったのだろう。最初から女将の味方であった豆じいや、女将の愛弟子たる緒花は別として、新喜翆荘を目指していたメンバーの中で最初に疑問を感じたのが菜子だったのは、彼女の性格や夢のあり方もさることながら、菜子がもっとも下っ端で日の浅い従業員であったことも、理由に挙げられるだろう。逆に、もっとも最後まで強情に打倒女将を貫こうとしていたのは、女将をもっとも近くで、もっとも長く見続けてきた、若旦那であった。女将のすさまじいカリスマ性が、逆説的に証明された描写だったと言えるかもしれない。


今回のお話の最大の注目点は、結局どっちが間違っていてどっちが負けることになったのか、という点だと思う。結論から言えば、若旦那も間違っていたが、女将も大いに間違えていた。今回のエピソードを見ればどうしても若い人たちの無謀な暴走という印象が目についてしまうけれども、一方で女将の考えの狭さというものも、前回は緒花によって、そして今回は菜子の言葉によって提示されていたのだった。そして若旦那と女将の双方が、お互いに自分自身の非を認め、改めて第三の道を選択したのが、今回描かれた物語であったと言える。その第三の道とは、女将の作り上げてきた古い喜翆荘のやり方を、若旦那を中心とした新しい体制で実現させるというものだった。つまりはまぁ、こんな騒動さえなければ自然と移行するはずであった当然の”あるべき姿”に落ち着いただけだったのだが、そこに至るまでにこれだけの苦労を経験したということが、新喜翆荘にとってどれほどプラスになるか分からない。いままでは女将の心の中にしかなかった喜翆荘の理想や理念を、次の世代にちゃんと、それも確固とした実感を伴って、バトンタッチすることができたのだった。


もちろん視聴者としては、せっかく皐月さんが帰ってきたことだし、調子に乗りやすい若旦那ではなく、正式に皐月さんを新女将に迎え入れて再スタートするほうがいいんじゃないかとか、思ってしまうわけだけれどw そうした新体制づくりも含めた、喜翆荘第二世代の歴史は、これから紡がれていくわけだ。むろんその間に、緒花にはしっかりと旅館経営のノウハウを身に付けると同時に孝ちゃんを婿としてしっかと確保して、喜翆荘第三世代のリーダーとして辣腕を振るう将来を夢見させてくれることであろう。



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さて、いよいよぼんぼり祭りを迎えることになるわけだが、「頑張る」と「ぼんぼる」の違いを改めて突き付けた今回のエピソードによって、『花咲くいろは』が第1話のころからずっと取り組んできたテーマを、最終回直前になって改めて浮き上がらせてくれたのは良かった。「夢」とか「希望」とかいった単語が、アニメで語られることは多い。けれども今作の場合は、明確なカタチを伴った夢を描きづらい現代社会において、若者がどんな生き様を志せば良いのかという難題に真っ向から取り組んでいる、本当に稀有な作品だ。


何のために働き、なんのためにお金を稼ぎ、それがどんな人生に結びついていくのか。お金があっても、好きな職業についても、そんな事実が人生の幸福や価値にほとんど影響を及ぼさないという現実を、現代の若者は強く強く認識しているのではないかと思う。『花咲くいろは』に登場した主役の少女たちはみな、あの民子でさえも、そうした若者の一人だった。


何十年か前であれば「ハングリー精神」などという便利な単語や、東京に出ればなんとかなるだろうというあやふやな幻想が力を持っていたからこそ、若者はがむしゃらに夢を追いかけ続けることができた。けれどいまは、アイドルや歌手や俳優がどんなシステムで”生産”されているかということが広く知れ渡ってしまっている時代だ。金を稼ごうと思ったって、その金の価値がひどくぐらついてしまっている時代だ。小手先の姑息な工夫ひとつで膨大な富を手に入れられるかと思えば、同じ姑息さによって一夜にして転落してしまう様を幾度も見せつけられ、またよしんばそれなりの収入を持ち結婚してマイホームなぞを持ってみたところで、それがどれほど楽しいことなのかひどく疑わしく思われてしまっている時代だ。


そんな時代の中で、何かやりたいのに、何がやりたいのか分からない緒花と結名。そもそも自分が何かをやれる人間だとはつゆほども思っていなかった菜子。やりたいことはあるけれど、それを叶えるための条件がひどく狭小な場所や人に縛られてしまっている民子。彼女たちは、それが若者の姿かと叱責を受けてしまいかねない浮ついた青春を送ってきた少女たちだった。けれどそれは、現代においてはとてもリアルな青春像であった。そして、そんな土台に立脚している青春を、どうすれば価値的な青春に改革してゆくことができるかということを、『花咲くいろは』という作品はまるで物怖じするそぶりも見せず、堂々と描き切ってみせたのであった。そんな作品のスタンスを一言で象徴しているのが、「ぼんぼる」というキーワードなのだろう。




今回、結名が自分の夢を語るシーンがあって、それがとても印象に残った。あれほど旅館経営を毛嫌い?していた彼女が、いまや福屋の一員として積極的に祭りの手伝いに参加しているだけでなく、将来は海外へ留学してホテルビジネスの見聞を広めてこようと言うのだ。当然それは、緒花たちの姿に感化されて、旅館経営の面白さに気づき、また福屋の跡取り娘としての自覚も芽生えてきたということなのだろう。将来の夢について強情なまでのこだわりを持っていた結名でさえ、いやだからこそ、こうもきっぱりと夢や目標を設定し直すことができる。これが、若者の、いやヒトという生き物の最大の強さだろう。


これまで、主に仕事に関する面で、現代の閉塞的人生観を打ち破る術を模索し提示し続けてきた今作だが、当然人生と言うものは職業(どうやって食べていくか)がすべてではなく、とくに若者にとっては将来設計と同じくらいの重大事項として、恋愛への関心がある。ともすれば別々に語ってしまいがちな将来の夢と恋愛を、今作ではそれぞれが密接に絡み合ってひとつの青春を、人生を作り上げていくのだという主張で物語を紡いできた。その総決算として、次回は緒花と孝ちゃんの恋模様と、女将と亡き夫の人生模様が描かれることになるのだろう。個人的には、すでに今世紀最高の名作のひとつと認定してしまってもいいとさえ思っている『花咲くいろは』の、最後に咲かせる大輪の一花を、大いに楽しみにしておきたい。




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それでは、今回は以上です。


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