ラストエグザイル―銀翼のファム― 第21話「Grand master」

紆余曲折あったけれど、戦(いくさ)の終わりにふさわしい、良い最終回だった。巨大構造物の崩壊という圧巻のシーンは、ただそれだけで心を動かされるものがあるなぁ。


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「いっぱい殺して、いっぱい悲しませて――

大人だったらちゃんと責任くらい取れよ!!!」



もう今回は、この発言に尽きる。終わりの見えなかった戦乱に決着をつけようと言うここ数話分の終幕劇は、すべてこの一言を起点として形づくられていたといって良いのかもしれない。未来に夢を託そうとするファムに、いかにしてこのメッセージを叫ばせるか。この目標を決して手放さずになんとかここまでたどり着いて見せた作り手の意地を見たように思う。練りに練った見事な構成力、なんてことはお世辞にも言えないけれど、むしろ垂れ込める暗雲の中でただ一点だけをひっしと見つめて飛び抜けた作品の姿勢や熱意は、主人公の姿にそのまま投影されているようではないか。


グランエグザイルの力でもって、マエストロ・サーラを頂点とする揺るぎない秩序を完成させる。ルスキニアのこの計画、というか夢は、半分は嘘で、半分は本気、といったところだったと自分には思えた。半分嘘というのは、これまで何度となく匂わせていたように、ルスキニア(および彼を支えるリリアーナ)がすべての悪や罪を一手に引き受け、反ルスキニアの大号令のもとに諸民族を団結させる、いわば人柱になろうという意図のもとに行動していたということ。今回彼がサーラをファムたちに託して、みずからは諸悪の根源たるグランエグザイルと運命を共にしたことで、まさに彼はその目的を達成した。しかし一方で、彼が自らの生命と名誉とを犠牲にしてまで、他の人々にこの先の未来を託すだけの価値があるのかどうかというのも、彼は最後まで疑問に感じていたはずだ。もし人々がどうにも救いようのない愚かしさで、永遠に争いを止めず、つまらない欲望によって地球を再び破滅させるようであれば、ルスキニアとしては公言通り、武力でもって彼らを従え、飼い慣らすよりほかにない。この最後の決戦において、彼は自分の為すべきことを見極めようと、最期まで葛藤していたのではないかと思う。


ルスキニアがファムと対峙した場面は、言ってみれば彼が、人類がこの脆弱な世界を担っていけるかどうかを、問答によって試していたのだと言える。そしてファムの決意を聞いて、頼りなくともまだ救いようはあると判断した彼は、「君たちが来てくれてよかった」と言ってサーラを託した。もちろんその判断には、ただファムの言葉に感じ入ったからというだけでなく、見るからに戦力不足の統合軍がいまにもグランエグザイルを撃破しつつあるという戦況を見てのこともあっただろう。このタイミングでグランエグザイルが危機に瀕するということは、アナトレーも含めた文字通り全世界が団結して事に当たっているということの証明であり、ルスキニアが独裁者として君臨するのではなく、人類の悪業を象徴する敵として打倒されるという結果が導き出されつつあるということだ。かつて統合軍が、意見の違いのためにサドリの第一艦隊に敗北しそうになっていたときとは、大きく状況が異なっている。ルスキニアとしては、やっとここまできたか、という安堵の思いを噛み締めていたことだろう。


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ファムが「責任くらいとれよ」と叫んだのは、ルスキニアには責任を取ることができるだけの意志も能力も備わっていると理解していたからに他ならない。自分を悪役に貶めてまでこの世界を救おうとしたルスキニアが、責任を放り出してひとりで死に逃避してしまうのを、ファムは許せなかった。最大の憎しみや恨みを込めて、もっと生きて欲しいと願った。未来に希望を抱いたルスキニアにとって、死は救済だ。自分の使命を強く意識していた彼の半生は、やりたくないことややってはならないことを実行しなければならないという点で、苦しみの連続であったはずだ。夢に燃えながらも現実の冷酷さをよく理解していた彼が、どんなにか自分の心に鞭打って働いてきたことか。しかしだからといって、人々の憎悪や苦しみを掻き立て、大量虐殺を行い、平穏と幸福を踏みにじってきたその行いが、正義であろうはずがない。罪でなかったはずがない。ようやく世界が立ち直ろうとしている今こそ、彼は自分がもたらしてきた数々の苦しみ哀しみを背負って、贖罪のためにその生命を燃やし尽くさねばならなかった。その義務を放棄して死んでいくということが、責任からの逃避でなくてなんであろうか。


これが、もうどうしようもない利己心まみれの独裁者だったら、世界の癌細胞とも言うべきその人物を排除することが平和に利する行為であると言うこともできる。しかしルスキニアが高潔な人物であり、他の誰よりも世界の行く末を案じていたという事実が、彼の死の虚しさを際立たせる。それはまるで、ここで死を迎えることも使命のうちであり、彼が演じ続けてきた悪役像を完成させるための最後のピースであるかのように。自らの運命を不幸だとは思わない、という彼の言葉は、果たしてどこまでが本心だったのだろうか・・・。


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ルスキニアのやり方は、正しかったのだろうか。彼の死は、これまで彼が犯してきた数々の所業に、さらにもうひとつ、サーラを心底から悲しませたという罪悪を、付け加えることとなった。生きていても、そして死してもなお、彼の行いには不幸と罪悪がつきまとっている。おそらく彼は最初から間違えていたのだ。たとえその結果に、平和への決意を象徴するグランレースの晴れやかな舞台が用意されていたとしても。


終わってみれば、この作品がどこまでも「ルスキニア・ハーフェズの物語」であったことは明白であり、”残された者たち”の代表として主な視点を担っていたファムでさえ、その物語においては脇役に過ぎなかったと言える。そしてこの点が、今作の、ひいては作り手の、我々人類の未来に対するどこか冷淡な予測を反映しているように感じてしまう。


国家という枠組みに縛られているうちは、戦争を根絶することなど絶対にできない。国家間同士の協調と言えば聞こえは良いが、現実にはいっこうに理想・理念どおりの世界に向かうことができないことは、作中で描かれるまでもなく、我々がつねに実感させられている現実だ。そんな現実に対して、国家という枠組みの利益を考えなければならない立場の人物が、夢想とも言うべき信念をカタチにしようと考えたとしたら、きっとルスキニアのような姿に行き着いてしまうのではないだろうか。そしてもしかしたらその姿は、これから先の世界をまとめていくサーラやミリアたちが、近い将来背負うことになるかもしれないものでもある。


戦乱を描く作品として、必然的に国家間の紛争やそれを指導する政治家・軍人たちに着目せざるを得なかった今作が、ルスキニアにせよファムやミリアにせよどちらの側にも正義はなく、それどころか正答すら導くことができないまま運命に流されていく過程を追いかけていったのは、彼らのやり方ではどうあがいても間違った道しか辿ることはできないのだという、どこか諦めにも似た世界観や人類観が流れているように思う。何千何万の生命を一瞬にして消し飛ばすグランエグザイルの主砲が、本来のところ攻撃兵器ではなく、むしろそれを建造した人々の夢や期待を象徴する技術であったことは、物語の終焉部に仕掛けられた最大の皮肉である。


意志や理念がどんなに正しくとも、正しい道を選ばなければ、悲痛な運命を変えることはできない。けれども、正しい意志や理念がなければ、そもそも何も始まらない。グランレースは、新しく生まれたばかりの世界の、大きな産声のひとつだ。このか弱き赤子を守り、大切に育てていくという困難な使命を、少女たちは無事に完遂することができるだろうか。喜びに沸く彼らを見ながら、そんなことを想わずにはいられなかった。





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『ラストエグザイル―銀翼のファム―』の感想は、これにて終了となります。これまで長らくお付き合いいただき、どうもありがとうございました。評価の難しいこの作品を、こうして最後まで熱意を持って視聴し、記事を更新して来られたのは、間違いなく読者の皆様のおかげです。

どれだけ楽しんで頂けたかは自信が無いですが、どうすればこの作品の隠された魅力を発見していくことができるか、真剣に悩み、考えながら、感想を書き綴ってきたつもりです。この作品のことが大好きだと胸を張って言える視聴者の方々を、少しでも応援できるようなブログであれたなら、これほどの喜びはありません。



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