亡念のザムド 第25話「ナキアミとサンノオバ」

クリティカルヒットに気に入っている今作も、残すところあと2話。最後まで期待以上の作品であり続けてくれるか。


まず映像的にはとんでもない神回だった。さすがボンズと言うべきお手並みだ。ここぞとばかりに描き込む納豆ミサイル(光線だけどw)と大胆なカメラワークで魅せる板野サーカスがじつに爽快でかっこいい。こういうスピード感あふれる空中戦は、巨大ロボット同士の戦いで描かれるとどうしても違和感を感じてしまうのだが(エウレカとか)、戦闘機とか、今回のように人間より一回り大きいくらいのザムドのサイズでは、素晴らしく映える。


またそうした戦闘シーンの合間に描かれる人間のドラマ(いや、逆か。人間ドラマの合間に描かれる戦闘シーンとするべきだね)での人々の表情が、終末を迎えようとする中で彼らの生き様をよく表現できていたと思う。黒い雨にうたれて石化していく場面では、驚く者、受け入れる者、抗う者と、この世界の仕組みに向かう上での各人各様の姿勢が現れる。公式サイトによると、あの雨は魂を持つものを結晶化するものだということだが、雨に晒されてもすぐには石化しなかった汗馬博士が、操者を失ったASPスーツと繋がることで初めて結晶と化したのは、彼が魂を失いかけていたことの表現か。


以前、胎動窟で行われていたことの説明があったが、かなり簡略的な説明であったので、具体的にどういう理屈で多くの人々が「死ぬために生き」ているのか、ちょっと理解しにくい部分だ。恐らくこの世界の成り立ちに関する壮大なからくりが設定として存在しているのだろうけれど、今までの描き方では、それが人の命や人生をないがしろにしているようだというくらいしか分からない。恐らく、一部の人の命と引き換えに、世界の安定をもたらすといったようなコトなのだろうということは読みとれるのだけど。


同じボンズ制作の「エウレカセブン」では、フレイザーの『金枝篇』がストーリー構成におけるモチーフのひとつとなっていたが、この『金枝篇』において考察されている主要テーマのひとつが、宗教的な意味で「王を殺す」ということがどのような意味を持っていたか、というものであった。そこでは、王は呪術的に世界(自然)と結びついた存在であり、王の身の安定が、そのまま世界の安定に繋がるという思想があったと考察されている。そして、あるサイクル(たとえば一年に一度)で、王を呪術的に殺すことで、世界の再生と活性を促すことになるという。


恐らく今作におけるヒルケン皇帝の役割も、これと似たような位置づけにあるのではないか。ただ、アニミズム的宗教観念における王が、作物の実りや自然災害からの防護などといった役割が期待されているのに対し、ヒルケン皇帝のそれは、人々の抱える負の感情を取りまとめる、かなりネガティブな役割を与えられているらしいという違いはある。しかしながら、世界の安定のために、あるサイクルに基づいて代々ヒルケン皇帝が生み出され、葬られていたという構図は、『金枝篇』で考察されていた未開人の宗教観・自然観をモチーフとして取り入れているのではないかと思う。


今回のサンノオバの話では、今上のヒルケン皇帝が通常とは異なる育てられ方をしたらしいというのが明かされた。そして、生まれおちるヒルケンを取り上げた身として、自身の手でかたを付けようとしていたのが、サンノオバの意図だったという話だ。具体的にどうするかというのも、用語が分からなくて理解に苦しむのだが、ナキアミの反応からおぼろげながら想像することはできる。サンノオバが、「資格が無い」と言い張るナキアミに禊ぎの儀を行ったのは、サンノオバのやろうとしていること(多くの人の生を犠牲にするかもしれないこと)を、世界のためにとすんなり納得するのではなく、疑って、自らの頭で考え、感じ、行動し、涙する心を獲得したナキアミに、自分の後継としてその役目を預けたかったのだろう。逆にナキアミもザンバニ号やアキユキ、ヤンゴ等との邂逅を経て大きく成長したがゆえに、サンノオバの意志を自分が引き受ける決断をした。それがどのような決断であるのかは、次回を楽しみに待ちたい。




ところで、ヤンゴの声はここに来てようやく板についてきた。初登場時に比べて声優の演技が良くなったのか、それとも耳が馴れたのか。


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