荒川アンダー ザ ブリッジ×2 第13話(最終回)「13 BRIDGE×2」&シリーズ感想

遊牧民スキーとしては、今回の羊たちには激しく萌えた。でもあの鳴き声じゃ山羊だw




・王様ゲームの決着と、牧羊犬エンド


前回から引き続き、最終話となる今回もまた、無茶苦茶な王様ゲームの死闘を描くエピソード。うーん、金星行きは結局、うやむやになってしまったなぁ。


第2期はこうやって、リクまでもが一緒になって荒川の行事を楽しんでいる光景が多くて、最後もそうやって締めたのは象徴的だった。1期の頃のリクのツッコミは、彼が自分を常識人だと思っていて、「常識と違うから」という理由で突っ込む場面がほとんどだった。しかし2期では、展開の予想外すぎる点に突っ込むことはあるが、基本的には、皆が盛大な遊びを無邪気に楽しんでいるのだということを理解しており、自分が常識人であるという強い固定観念はあまり見られない。むしろ星・シスター・サムライとリクの4人は、いかにも仲の良い小学生男子という印象で、何かあると積極的に呼吸を合わせて楽しんでいるのが微笑ましい。とくにリクの場合は、みんなの暴走に一瞬戸惑いながらも、すぐに、「なるほどそういうゲームか!」と言わんばかりに、その暴走の輪の中へ積極的に入って行けるようになった。主人公のこうした変遷が、1期2期を通じて描かれたもっとも重要なドラマであるかもしれない。


ともあれ、「早すぎて止まっているように見える」なんていう村長の脳内妄想にひとしきり全力で付き合ったあと、いつもの口撃でマリアが完勝するところを見て、王様ゲームはお開きとなった。


後半は、マリアの命令を実行するべく羊たちに立ち向かう男子たちの姿を描いた。放牧された羊たちを柵の中に追いたてるというシチュエーション。遊牧民の歴史や文化が好きで、モンゴルや中央アジアで実際に羊の群れを間近で目にしたり、あるいはオーストラリアの広大な農場で羊の大群を追いたてる獰猛な牧羊犬の仕事を生で見た経験のある自分としては、懐かしくもあり、微笑ましくもあり、そして突っ込みどころも多いシーンだったw


マリアが持っていた羊小屋や羊たちは、規模としてはずいぶんと小さかったけれど、まぁ河川敷のような狭い場所で飼うのならあんなものか。自分が牧羊犬を見たときは、何百頭もの羊たちをたった2匹の犬が追いたてていて、ディンゴの血が混じっているというその牧羊犬はそれはもう獰猛に、吠えたり噛みついたり蹴飛ばしたり背中の上を走りまわったりと、すごい迫力だった。劇中で犬達があり得ない高さをジャンプしていたけれど、さすがに物理的にあれは厳しいとしても、あれくらい想像を絶する姿だったという印象は強く目に焼き付いている。


しかし一方で、モンゴルや中央アジアでは羊の群れを追い立てるのは人間の仕事で、ボケっとした羊たちをゆったりと行進させる、それはおだやかなものだった。もちろん急かす時は馬に乗って鞭でひっぱたいたりするのだろうけれど。でも中央アジアのある農村では、朝や夕方に子供達が数十頭の羊たちをヨチヨチと追い立てる姿は、とても可愛らしいものだった。効率化と羊毛の高い品質を求めるからこそ欧米では牧羊犬を使役しているのであって、そういうのにこだわらない伝統的な遊牧民の暮らしの中では、あそこまで殺気立った放牧の光景はあまり日常的ではないと思われる。もちろん、シスターの指揮の下で決死のミッションを遂行しているリクたちの姿は可笑しくて、マリアさんもさぞ満足だったことだろうw


それから、羊の鳴き声はよく「メェ」と表記されることが多いが、そんな可愛らしい声で鳴くのは子羊だけで、大人の羊はそんな声では鳴かない。文字では形容しがたいのだけれど、「ボァー」とか「バァァ~」とか、地獄の住人のゲップのような鳴き声を発するから驚かされる。大人になっても変わらず「メェ」と鳴くのは山羊であって、とくに遊牧民の文化では羊と山羊を一緒に放牧させるから、混同されてしまったのかもしれない。ちなみに、大人の羊はみるからにブサイクで、しかし美味しそうな格好をしている。決してアニメで描かれたような、ぬいぐるみ的な家畜ではないw
 



・祭の終わり ニノとリクのすれ違いについて(第2期シリーズ総括)


牧羊犬ごっこ(?)で十分に遊んだ後は白線流しの時間。もしかしてこれ、荒川河川敷で恒例のイベントなのだろうか。思い付きというよりも慣例に従って動いているような年長組の姿に、どこか牧歌的な印象を受けた。あくまでいつも通りの河川敷の光景なのだが、その中にも、盛り上がる時間もあれば、こうして祭りの後の切ない時間もまた存在する。キャラクターの言動がさして変わらないのに、驚くほど多彩な表情を見せる画面中の空気感に、感心させられるシーンだ。


それにしても、楽しいイベントが終わってしまうことの辛さや寂しさを、強く強く感じているニノの姿には、思わず胸が締め付けられる思いだった。もし本当に金星に帰る日が近づいているのなら、あと何回、こんな幸福な一日を味わうことができるのだろう。第2期シリーズのこれまでのエピソードによって、すでに何名もの荒川住人が、金星行きを断念している。いつまでも皆と一緒にいたいというニノの願いは、もはやほとんど叶えられる可能性が無くなってしまったのだ。このまま行けば、いま同行を申し出ている者たちさえも、ついには脱落して誰ひとり残らない事態になってしまうのではないか。そんなやるせない悔しさと寂しさを、水面を見つめてニノは感じていたことだろう。


フィアンセであるリクは、漠然とながら、彼女の心情を正しく読みとってみせた。彼が差し出した手と、今も昔もこれからもずっと一緒だという言葉は、果たしてニノにとってどれほどの救いになったのだろうか。恐らくリクは、ニノの金星行きを本当には信じていまい。だからこそリクの言葉は、彼にとっては真実である。またニノのほうも、こちらは大真面目に、リクが金星に付いてきてくれると、彼の言葉を受け取っていると思う。だから、ニノの聞いた言葉は彼女にとっての真実でもあった。しかし、二人の考えている「金星渡航」の意味が根底から食い違っている時点で、リクの言葉は何の意味も成してはいない。第三者としての我々視聴者の視点から見れば、リクの言葉は何の補償も覚悟も無い、気休めにさえならない言葉である。たったひとつの告白なのに、リクにとっての真実はニノにとっての虚偽であり、ニノにとっての真実はリクにとっての脅威となる。この悲しいほどのすれ違いは、しかしこのアニメでは結局なんの解決も見ることはなかった。


ストーリーはまだ中途なんだから、あとは原作を読んで補完しろと言うのは、原作読者にとっては簡単だろう。だが、とくにキャラクターの心情や作品のメッセージについて、未解決の問題をたくさん抱え込んだままあえて幕を引いたこの最終回は、あえてモヤモヤしたものを置き去りにすることで、視聴者の心をかき乱そうとしているようだ。そもそもこの作品は、しばしば非常に奥の深い問題を提起しながら、あえて作品としての回答を与えずに、視聴者が自ら考えるよう促す傾向がとても強い。「常識ってなんだ?」「恋ってなんだ?」「人生ってなんだ?」といった疑問に加え、ホンモノの金星人の存在によって、「地球上で暮らす自分達人間は、いったいどういう存在なのか」という問いを鋭く突き付けてくる。それに対して、いちいち回答を提示することなど一切しないで、あとは受け手が自らの思索で、心の畑を耕してみせろと言っている。このテレビ版第2期最終回は、少し切なげなロマンスに包みながら、しかし大きなすれ違いを抱えたままの地球人の騎士と金星人の王女の恋を、あえて未解決のままに放置した。それは、改めて、地球人であり、文明と社会秩序の中で暮らす我々の人生というものが、いかに儚く脆い価値しか持たないのか。そしてそんな脆い価値にしがみついて生きるしかない我々の存在の歪さを、金星人であり非常識な無秩序の結晶のようなヒロインの眼を鏡として、まざまざと突き付ける試みではなかったか。


ずいぶん馴れたとはいえ、まだまだ常識人としての発想を捨てきれないリクの姿。あるいは、自由奔放に見えて、実際にはやっぱり地球人としての立場や考え方の上に成り立っている荒川河川敷の世界。ニノが金星に向けて旅立つということは、そんな地球人としての河川敷住人の常識を問いかける行為であると言える。ニノが本当に物理的に金星人であるということを信じているのは村長ただ一人であろう。そんな荒川住人が、ニノの本気に対してどこまで真剣になれるのか、いざとなれば尻ごみしてしまうのではないかということは、当然予想される。1期の頃にはハチャメチャに見えた彼らも、想像以上に秩序立った常識的な人々だったと気付かされるのが、この第2期シリーズであったからだ。


現代社会の矛盾に鋭く迫った河川敷的倫理観、という第1期の構造を踏まえた上で、その河川敷住人すら常識に縛られた存在であると喝破するという、二重の否定。それが、ニノの金星渡航計画の真実であると思う。そしてそのシーンが実際に描かれなかったということは、現時点では、我々自身が地球と金星の狭間に立って、我が身の振り方を考える余地を残したということだ。もし自分だったら、ニノの父のように現代社会で勝つことを無上の価値と考えるのか、荒川住人のように文明から離れたところでの人間的な生活を価値的だと考えるのか、それとも人間(地球人)としての意識まで邪魔だとして、宇宙的視野に立った人生観を志向するか。仮に『荒川アンダー ザ ブリッジ』の作品としての回答が漫画で描かれることはあろうとも、やはり受け手である我々自身が、今作の突き付けている問いかけに真摯に取り組んで見せることが求められるだろう。


あえて中途で物語を放棄したアニメ『荒川アンダー ザ ブリッジ』。続きが見たいからぜひ3期を、というのは簡単であるしそれを望みたい気持ちもあるが、しかし他の作品とは決定的に異なる、この作品だからこそ可能となる思索の努力までを、決して放棄して欲しくは無い。それだけの価値のある作品だった。




・サーカスに込められた意味


久々の「逆様ブリッジ」に乗せたエンディングの後、最後で最後の「第200話」として、ニノを主役とした荒川住人たちによる、詩的で印象深いサーカスが披露されて、本当の幕引きとなった。


このサーカスの場面は、すごく、すっごくシャフトらしいし、『荒川』らしいと思った。らしい、と言っても、別に既視感があるわけではない。このエピソードで締めたのは、とても意外だったし、斬新だった。こういうカタチで最終回を締めると言うのは、作品の虚構性に注目したいと考えている自分にとっては、まさに我が意を得たものというか、なんというかすっごく好きな幕引きだった。


では何がシャフトらしくて『荒川』らしいのかと言えば、漫画やアニメーションによって描かれているこの物語を、作り手がどのように捉えているかというのが、如実に表れていると思ったからだ。


サーカスは、恐らく種も仕掛けもあるのだろうし、舞台も衣装も作り物で、役者は自分の本質を隠したまま何かを演じ続けている。端から端まで、何もかもが作り物で嘘の世界であり、そういう演芸、つまりは見せものだ。双眼鏡を手に細部まで目を凝らせば、煌びやかな衣装のどこかにほころびを見つけ出すことができるかもしれないし、手品の嘘を見抜き種を明かすことができるかもしれない。あるいは、涼しい顔で演じている役者の演技を、批評家ぶって評価し査定することだってできるだろう。しかし、そのサーカスの舞台の価値は、そうやって暴かれる種や嘘や演技の中には、決して存在しないのだ。双眼鏡を捨て、あくまで自分自身の肉眼で、舞台全体の雰囲気を全部眼球に取り込みながら、見たいところへ好きなように視線を動かしてこそ、その見せものを十全に堪能することができる。またそう仕向けるのが、サーカスの目的であり存在価値なのだ。


それと同じことが、漫画やアニメについても言える。この物語は、フィクションである。画面中の出来事を、さももっともらしく描くのではなく、ことさらに虚構であることを意識させて描いている。荒川河川敷にあんなアナーキストの理想郷などあるわけはないし、金星人だっているはずがない。しかしそういう設定的な側面も含めて、あえて虚構であることを強調することで、作品の描きたかったことがよりはっきりと、そして効果的に、我々の前にその姿を現している。そこで追求されているのは、コメディとしての面白さであろうし、個々のキャラクターの魅力や曲芸の素晴らしさであろうし、またその舞台を通じて投げかけられる作り手のメッセージであり問題提起であろう。リアルに存在すれば戸惑うしかない奇妙なキャラクターや物語の姿も、舞台の上の虚構空間として認識されることで、それは何よりも驚きと興奮とに満ちたエンターテイメントへと昇華されるのだ。


画面中を、あえて虚構としての特徴を強調し、嘘臭くゴテゴテと飾りたてることによって、創作された物語は本当のチカラを獲得する。このスタンスは、新房監督×シャフトによって生み出されたすべての作品に共通するものであるし、また『荒川アンダー ザ ブリッジ』という作品においても原作の時点ですでにはっきりと志向されていたものだったのではないかと思う。第200話のサーカスは、シャフトが、そして『荒川アンダー ザ ブリッジ』が常に目指している地点であり、その理想を象徴したものだ。この作品は虚構でありサーカスなのだ、だから心ゆくまで楽しめば良いし、受け手の好きなように解釈していって欲しいという、作り手側の強いメッセージと言えるだろう。


そう、この物語は全然真実ではない、ヒトの手によって造られたモノである。だからこそ、我々受け手が作品内部に深く介入し、恣意的に、しかし真摯に、自分のチカラによって作品の本当の価値を探し求めるべきである。また、ただ作り手が一方的に発信するだけでなく、受け手の思索が積極的に加えられてこそ、初めて作品はカタチあるものとして成立する。それは、今作に限らず、ヒトの手によって生み出されたすべての創作物に等しく求められる姿勢なのだ。




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それでは、これにて以上となります。どうもありがとうございました。


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