魔法少女まどか★マギカ 第9話「そんなの、あたしが許さない」

視聴者の予測を完全に見切ったうえでの、キュゥべえの描き方が巧すぎて憎い。




・裏切られた希望


今回のエピソードの最大の焦点は、魔女になってしまった美樹さやかを救い出すことができるか否か、というその一点であった。そして、作為的に情報を隠しながら言葉巧みに少女たちを騙してきたキュゥべえが、今度はあえて隠している情報があるらしいと杏子に邪推させることで、まんまと彼の思い描くシナリオを実現してしまった。


正直、今回のキュゥべえの言動ほど恐ろしくも感心させられたものは無かった。これまでは、幸福や正義に心を動かされる少女たちをたぶらかすために、人間にとって決して好ましくない情報をひた隠し、嘘はついてない、これは詐欺ではない、お前たちが勝手に勘違いしてるだけだと言い繕って、卑劣なやり口で契約を結ばせていった。キュゥべえのそのようなやり口は、視聴者だけでなくまどかや杏子たちにもすっかり明らかになってしまったわけであるから、当然、いままでと同じ手法で会話をつなぐことは不可能となった。今回も、さやかを救う手だてがないのかと問い詰める杏子に対してなんとなく歯切れが悪そうだったのは、キュゥべえの言葉にまったく信用を置かない相手に対して、嘘はつかないという制約のもとに話をするのは、いかにキュゥべえといえども難しいのだと、きっと誰もが思ったことだろう。キュゥべえはきっと何か隠し事をしている、しかしそれを明かすことはできないのなら、きっとそれは、さやかを助ける方法に関することなのだろうと結論付けるのは、それ以外に選択肢がないくらい自明の帰結だ。


けれどその結論が、じつはキュゥべえの仕掛けた巧妙な罠だったと種明かしされたときは、まったく予想外の結果に背筋がぞっとした。キュゥべえがまどかと契約を結びたがっていることなんて、言われるまでもなく分かりきっていたことだった。それなのにどうしてAパートの時点で、さやかを救える可能性がありそうだとする杏子の論理を全面的に受け入れたうえに、キュゥべえの歯切れの悪さに何も疑問も差し挟まなかったのか。もちろん、ワルプルギスの夜というのがほむら一人では対処できないくらいに危険な魔女の襲来なのだとされ、それを好機としてまどかの魔法少女化計画を立案しているというのは、劇中では今回初めて明かされたことではあった。そして今のキュゥべえが、そのシナリオをいかに成功に導くかに腐心しているのだということを前提にして、彼の言葉を聞かなければならなかった。しかしそれにしたって、さやかを助けたい、見込みのない奇跡にだってすがりたいという杏子やまどかの想いに、あまりにも引っ張られすぎた。ここまでまんまとキュゥべえの口車に自分が乗せられてしまったという事実は、なんとも衝撃的で、恐ろしい事態だった。。


この恐ろしさは、残りの話数におけるキュゥべえの役割がいや増して重要となるであろうことを十分に予見させるものだった。なぜかというに、いままでは視聴者はキュゥべえの腹の底に眠る悪意や欺瞞をわかっていて、そのうえで彼に翻弄される少女たちのドラマを楽しんでいたはずだった。ところが今回のエピソードで、少なくとも自分は完全にキュゥべえの言動に騙されてしまったし、またあのほむらでさえもキュゥべえの舌先三寸で踊らされる可能性があるということで、視聴者や作中の事情通を巻き込んで、これからさらにキュゥべえの壮大な罠が発動する展開を、大いに覚悟させるものがある。今回、人生の悲哀をたくさん経験してきたはずの杏子でさえ、儚い希望を餌にキュゥべえの言葉に操られてしまった現実を見たとき、どこまでも裏切り続けられる希望の虚しさを描く今作のスタンスを、改めて思い知らされたのだった。




・なぜ対象が少女限定なのか


意外とシステマティックな内容に進展した、キュゥべえの野望についての話。彼は、自分たちインキュベーターには感情がない(本当かよ!?w 感情を十分に理解してるから詐欺師になれるんだろうに。)と言っており、また種としての総数が十分であれば個体の生き死になど問題にはならないと語るような、価値観の相違をいよいよはっきりと示すようになってきたが、そうであれば彼(彼ら?)が人間に対して何らかの悪意を持って危害を加えようとしているわけではないことも、真実である可能性は高いだろう。もちろん、魔女のエネルギーを利用していったい何をしているのかはわからないけれども。このあたりは、人間が恐ろしい核エネルギーを爆弾にも発電施設にも活用しているのと同じで、目的はともかく、魔女と魔法少女の戦いがエネルギーを生み出すための手段であり、なにも人間憎しでこんな呪いを科しているわけではない。「孵卵器」の名前の通り、キュゥべえたちは謎の宇宙人に生み出された道具に過ぎないのだろう。


インキュベーターが膨大なエネルギーを集めようとするその目的は大変気になるところではあるが、作中でそれが明かされることはないかもしれない。とにかくキュゥべえの管理しているこの魔女システムとでもいうべきものが、少女たちにとって決して逃れられない宿命としてのしかかっているという点を留意しておけばいいと思う。魔女なんてたしかに虚構であり創作物ではあれど、そうでなくても、われわれ人間はこうした宿命を山ほどその人生や歴史に背負っているのだし、それらが自業自得で招いたものだけではなく、人が自ら望んだことなんて一度もないのに、理不尽にも神さまに押し付けられた呪いだって、いくつも思い当たるものがあろう。魔女と魔法少女の戦いは、人間一般や自分自身にのしかかり縛り付けている様々な宿命と不条理の象徴として、視聴者の各人が胸に手を当てて、捉えていくべきだろう。


そのうえで、なぜインキュベーターに選ばれたのが、人間の中でもとりわけ10代の少女たちであったのか。この点について、今後の展開を睨みながら考えていかなくてはならない。自分なぞは女性の気持ちなんて全然わからないし、絶望の深さということならむしろ10代後半以降の青年男子こそ、心のエネルギーを搾取する対象に選べばいいのにと、思ってしまう。というか、年齢に縛られず全人類を対象に考えたほうが、希望と絶望のはざまで揺らぐ不安定な心のありかを探し求めるのはずっと楽だろう。それなのに、どうしてわざわざ少女たちを選んだのか。この作品を魔法少女モノにするのだという企画がまずあったんだから仕方がない、というのが正しそうだけれど、仮に後付設定であったとしても、どうしてこんな設定を生み出したのかを考えることは、作り手が作品を通じて発信しようとしていることを汲み取るためにきっと有用なことのはずだ。


そしてそれを紐解くキーワードであるところの”少女”。この語に作り手がどんな人間像を想定しているかが、もっとも重要な疑問となることは間違いない。




・象徴としての少女について考えてみる


まず大前提となるのが、作り手の想定している”少女”が、あくまでフィクションとしての存在であるということだ。なぜかというに、まずシリーズ構成と全話脚本を担当している虚淵玄が男性であり、そして作品が対象としている視聴者層がほぼ間違いなく大人の(少なくとも高校生以上くらいの)男性であろうからだ。男性によって書かれた男性のための物語が現実の少女を描けるはずがないし、わざわざそんな難題に挑戦する必要もない。今作が魔法少女という括りで扱おうとしているのは、リアルに息づいている少女像ではなく、少女という語によって喚起されるある種のイメージであり、そのイメージによって構築された虚構のキャラクターたちである。


では虚構としての少女にしばしば付随しているイメージとは何か。おそらくよく思い描かれているのは、純真無垢で、世の中の悪いことや醜いことにまったく触れていない穢れなき心と身体をもった若い女性であろう。しかも完全な子供とは違って、思春期にさしかかった少女たちは肉体的にはもちろん精神的にも大人に近づき、様々なことを受け入れ消化する準備が整い始める。自分の頭で考え理解し判断する能力を有し、大人と同じ領域にいつでも足を踏み入れる用意がありながら、まだそうした穢れには属しておらず、直前で踏みとどまっている段階だ。つまり少女には、善悪とか、美しいとか醜いとか、正しいとか間違っているとか、あるいは好きとか嫌いとか、そうしたありとあらゆる価値基準からほぼ完全に独立した一個の存在である。清く正しく美しかった子供時代に身を置き、そのままそこにとどまり続けるか、快楽とともにたくさんの罪悪を抱え込むことになる大人の世界へ踏み込むか、その判断をゆだねられた、稀有の存在なのだ。


大人の犯す罪悪とはしばしば「ほかに選択肢がなかったから」という理由を伴うことがあって、つまり大人とはどんなに正しく生きようと思っても、どうしても逃れられない宿命や、単純な二元論では解決できない難しさから、自分の意思とは関係なしに罪や悪を背負い込んでしまうものなのだが、少女という年代においては、社会的責任のなきがゆえに、そうした自己矛盾的な選択を強要される事態もほとんど発生しない。あらゆる可能性が開かれた場所に、考えるチカラを持ちながら”まだ何も知らない”状態で置かれている一瞬間、それが少女の正体である。(もちろんこれは少年も同じで、だからさきほど自分は、今作の設定なら少女ではなく少年を選ぶべきだと書いたが、これは少年の持つ精神的特性と、少女のもつそれとに、確かに差異があるからだろう。誤解を恐れずに書くなら、男性は征服と勝利を、女性は安寧と幸福を求めるイキモノである。)


今作で描かれている少女たちもまた、このようなイメージを多分に内包した存在であろう。とくに主人公のまどかは、まさに虚構的少女像をそのまま絵に描いたようなキャラクターだ。そして、常に皆の幸福を願い、正しいと思えることを真摯に貫こうとするまどかが、その意志に反して、まったく理不尽な目にあってしまう不条理さこそが、今作が何度も何度も描き続けてきたものであった。




けれど、では何のためにまどか達をこんな目にあわせるのか。穢れなき少女たちを痛めつけて、泣きそうになっている顔を見て愉悦するアニメではあるまいから、あえてこのような設定や論点に立って物語を叙述する以上、それを通じて何を語ることができるかが、勝負になってくる。あえて”少女”を、それも現実の少女ではなく人間のある側面を先鋭化させた特殊な存在であるところの少女を描こうとするからには、それによって人間の存在やその宿命に鋭く迫って見せようとするはずだ。そうではなく、単に悲劇色たっぷりに、美少女の活躍する英雄譚として作り上げただけの物語であるなら、わざわざ異例の企画として今作を立ち上げた意味が分からない(もちろん、ビジネスに関しては別問題だが)。


シャフトファンとして、映像演出の進化だけでなく、その映像によってのみ表現されうる物語の存在をずっと求めていたことは、ほかのシャフト作品の感想等でも幾度も書いてきたことだ。そして今度こそ、シャフト演出による映像と融合した唯一無二の作風を確立し、長く語り継がれる作品が登場することを期待させてくれたのが、『魔法少女まどか★マギカ』というタイトルだった。次回からはいよいよ、今作中もっとも重要なペアであろう鹿目まどかと暁美ほむらのエピソードが本格的に始まるのであろうから、最終話の結末を睨みつつ、全力で取り組み楽しめる展開になってくれることを願いたい。




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それでは、今回は以上です。


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