花咲くいろは 第2話「復讐するは、まかないにあり」

いやぁ、素晴らしい。いい感じになってきたじゃないですか。なんだかオラ働きたくなってきたぞ。




・不条理な人生


前回、さんざん「働きたくない」という論旨のことを述べて恥を晒したので(笑)、もう少し自分の趣味に沿った見方をしてみようと思いますw


というのも今回、「働きたいのに!」と息巻いていた緒花が、ふと立ち止まって「本当は何がやりたいんだろう?」と自問したのを見て、我々人間がその人生において根本的に抱え込んでいる不条理性をよく象徴していると思いついたからだ。


人生の不条理性とは、自分の解釈するところをなんとか言葉にしようと試みるならば、”何の合理的説明もなしに、望んでもいない苦労を背負わされること”だと思う。


我々は誰も、生まれようと思って生まれてくるものではない。仮に母親の腹の中から出てこようと頑張ったのだとしても、そんな熱意はすぐに忘れてしまうし、物心ついてから「生まれてよかったと」心から思うためには、何か特殊な経験を必要とする。そのようなある種宗教的ともいえる経験や教育を受けない限りは、生命というものは自分の意思や希望とは関係なしに、誰かに強制的に与えられたものと認識される。


無駄なことを考えたがるイキモノであるところの我々人間は、そこで、せっかく自分に付与されているこの生命(およびその道程である人生)に、きっと何か合理的な意味があるのだと空想を始める。なんといったって、どんなに楽しいことであっても、誰かに無理やりやらされていると考えただけで虫唾が走るのが、人間の性(さが)なのだから、やらされているのではなく、自分の意思で目的を持って生きることを求めようとするわけだ。


しかし、現実には、我々の生命にそんな意味など一切何もあるワケがなく、誰かに強制されて必死にもがきながら生きているこの人生も、ゴールとして設定されている目標のひとつだって見つかるハズがない。その絶望的な事実をしかと認識し、その無意味無目的な人生を生きようと決意すること、それが、人生の不条理性だ。主だった宗教は、この絶望感に対して、死後の報いを用意することで回答を与えてきた。しかし近代以降、宗教(正確に言えばキリスト教)の存在意義が揺らいだことで、哲学・文学の分野を中心に、多くの人々が真剣に、釣り合いのとれた報いなど用意されていない、非合理的で無意味無目的の人生というものの価値について、考えをめぐらせてきたのであった。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。 ―― カミュ『シーシュポスの神話』より




・緒花の境遇を人生の不条理になぞらえて見てみる


さて、『いろは』の松前緒花についてであるが、彼女は何か明確な将来の目標があるわけではなく、ただ目の前の様々な出来事に(普通の人よりはずっと過敏に)反応し、一喜一憂している。第1話において彼女は、強制的な引っ越しという事件を踏まえて新しい人生を歩みだした。その人生は、労働によって人間の価値が成立し、役割と責任を全うすることを求められる人生であり、緒花はその役割と責任を果たすために一生懸命に頑張ることになる。しかし、ではそうした労働、自分で求めてやってきたわけでもなく、むしろ説明不足すぎて戸惑いながらやらされることになった労働にいったいどんな意味があるのかと言えば、それは緒花自身が食いはぐれないように、というただそれだけの意味しかない。幸せとか、成長とか、仲間としての絆とか、そんなセンチな希望はすべて、非合理的に怒鳴り散らす女将(そして神様であるところのお客様)によって踏みにじられる。歯を食いしばって必死にやりきってみせたところで、そこで得られるのは最低限の衣食住だけ。まさに、人生の不条理性をそのまま体現しているかのような境遇ではないだろうか。


「働きたい」という緒花の目的は、そもそも彼女がこの新たな生活に最初から望んでいたものではなかった。しかし、状況が、彼女に”働かねばならない”ことを強要した。労働それ自体に価値も喜びも存するのだというテーマだと思って前回はゲンナリしてしまったのだけれど、この働くという行為に人生の不条理性を象徴させているのだとするなら、本来は当事者の意思とは無関係に設定されたこの状況を、緒花自身の手でいかに価値的に、有目的的に変容せしめるか、それが、『花咲くいろは』に貫かれているテーマなのかもしれない。


西洋では、キリスト教の価値観が揺らぎ、永遠(≒死後の安寧)が約束されていないという事実に気づいてしまうということが、あまりにも衝撃的に受け止められたようだ。しかし我々日本人の多くにとって、あなたの生命はたった一度きりのもので、来世なんて全然存在しないものなのだと指摘されたところで、何の感慨ももたらさないだろう。江戸時代以来、日本人はあまりにも宗教に対する信頼を失墜させてきた。ニーチェに指摘されるまでもなく、神(=宗教)はとっくに死んでいたのだし、ニヒリズムを通り越した無関心主義の真っただ中をさまよっていたのであった。宗教と聞くと内実もしらずに詐欺集団だと決めつけてかかる現代日本の支配的観念には、宗教が扱ってきた重要なテーマを宗教抜きで考えよう、という無神論の基礎的な姿勢すら認められずに、ただただ即物的快楽的刹那的人生観が、色濃くその影を落としこんでいるように見える。このような社会にあって、改めて人生の価値や目的の有無に目を振り向かせ、「いかに生きるべきか」を鋭く問いかける姿勢は、哲学・文学の領域のみにとどまらず、広く実践されてしかるべき課題であると思う。


もちろん、さすがにアニメ作品において、ましてや岡田磨理のシナリオにおいて、哲学や文学の領域で扱っているような小難しい人生の価値論を振り回すことはないだろうとは思う。そうではなくて、無意味無目的の労働の中に頑張って楽しいことを見つけようと努力し、辛いこと苦しいこともすべて”生きるよろこび”に変換してしまうヒロインの生き様の素晴らしさにこそ、人生の価値と可能性を描き出そうという作品だろう。しかしながら、ただ大人の価値観として「働くこと=人生」みたいに語られたり、その中で芽生える友情や家族愛を幸福そうに描くだけに終始する作品ではなく、より根本的視野に立って、アニメを見ている若者たちの感性に強く訴えかけようとする様子が、第2話から少しづつ感じられるようになってきたとは、言えるのではないかと思う。


『true tears』において、夢に突き進もうとする男子の生き様の是非を問うカタチで一度描いたテーマではあるが、それを改めて別の角度から意欲的に取り組もうとする『花咲くいろは』。やれと言われた労働を精いっぱいに頑張るだけではなく、その労働も含めた生活の中にどのような価値や喜びを見出すか、という視点で描き出されるであろう登場人物たちの輝きと物語の行く末を、楽しみに見守っていきたい。




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それでは、今回は以上です。


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