ボウフラは何を思って羽化するのだろう?

ちょっと雑談的な記事。


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ついさっきNHKで、アフリカ東部における生物の多様性と進化に関する特集番組をやっていた。それは主に湖にすむ魚にスポットを当てた番組だったのだけれど、その中で、まるで竜巻みたいなモノスゴイ蚊柱を作る蚊が紹介されていた。


なんでもその蚊は、ボウフラのうちは水面下100メートル(!)の水中で生活しているが、雨期の到来したばかりの風のない日に一斉に羽化して、その場で繁殖を行い、一生を終えるのだそうだ。ボウフラ時には魚の、羽化してからは鳥の襲撃を受けながら、しかし何億匹もいるか分からない数でとてつもない大きさの蚊柱を作るそのふとましい生命力に、ただただ圧倒された。そして、なんだか虚しくなってしまった。彼らはいったいなんのために生きているのだろう。


ボウフラっていうのは(人間の定義では)蚊の幼虫にあたるわけで、いわば子どもだ。ボウフラでいる間は絶対に生殖活動を行えないというのは、蚊にとってみれば、社会的価値も責任も伴わない未成年と同じである。そんな期間が一生の9割9分を占めながら、いざ成人して大空に飛び立ったら、生命に与えられた義務を速やかに実行し、この世の春を謳歌する暇もなく水中に没していく。途中で天敵に食われてしまうのも哀しいとはいえ、それは食物連鎖の一員としてほかの生命に役立っていると慰めることもできようが、幸運にも天敵の妨害を受けずにその出世の本懐(この世に生れ出てきた使命)を果たし終えたところで、その場ですぐに力尽き死んでいく彼らの人生にどんな称賛の言葉を送ることができよう? あまりにも、むなしくて、残酷で、理不尽な生命の環ではないか。


こんな夢も希望もない、ただ巨大な機械の歯車のような一生。人類(われわれ)から見れば取るに足らない喜びしか与えられず、常に死の危険を回避しながら、それでいて怒涛のように死へと突き進んでいくだけの生命。ほかの蚊であれば、花粉を運んだり病原菌やウイルスの仲介役になることで、その善悪は別にしても他の生命や自然環境に一定以上の存在感を占めることもできようが、アフリカに生きるこのナントカという蚊は、その存在価値といえば、魚や鳥の餌以上のものはなにもない。それでも毎年たくさんのボウフラが、意味があるとは思い難い運命の声に従って、おそらく大きな勇気と希望とを抱えながら、水深100メートルの深みにて雨期の到来を敏感に察知し飛び立ってゆくのだ。こんな馬鹿げた生命の仕組みを生み出した酔狂は、いったいどこの誰か?


同番組でその直後に紹介されていた、他種族の巣に自分の子供を紛れ込ませて偽の子として育てさせる(いわゆる「托卵」をする)ナマズのほうが、よっぽど生命らしい。そのナマズたちはかっこうのように美しい声で鳴くこともせず、愛らしい容姿をしているわけではない。ぬめぬめした肌と不格好なヒゲ、そしてなによりそのふてぶてしい表情が、托卵というおぞましい行為のもたらす悲劇と相まって、ぞっとするような光景として繰り広げられる。けれども画面を通してみた彼らの生き様は、よほど楽しそうで、活力に満ちていて、称賛に値するものだった。それは原罪の苦悩に彩られた生命であり、その狡猾で厚顔無恥な生き様は僕を大いに満足させるものだった。これぞ正しき生命の輝きだ! これこそが荒野のおおかみの生き様だ!


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蚊とナマズと、どちらがより高度な生命なのか、僕は知らない。ただ考えたいのは、そこに表れているふたつの生き方のどちらを、我々人間は選択すべきなのか、というテーマだ。


仮に、一個の生命それ自体にはなんの価値も見いだせないような理不尽なシステムの生命が、進化によって狡猾さを備え、より自己中心的に環境社会へと適合してゆくのだとしても。あるいは虫と魚はまったく別系統の生き物であり、それぞれが独自の戦略で生き残ってきた対等な生命だとしても。それにむろん、我々の選択肢が蚊かナマズかというふたつに絞られるということもあり得ず、きっと無数の戦略が、努力が、狡猾さが、我々自身の意思によって選択され得るはずだとしても。


そうした中で、どの生命体よりも思考の能力を進化させてきた我々がもし、人間と言う種の生態が指し示す運命的な道筋に縛られることなく、一人ひとりが自分自身の思索によってその生きる方法を選択できるのだとすれば(それはきっとできるはずなのだ)、じゃあいったい何を自分は選択してみせるのか。はかない命の蚊と托卵ナマズと、どちらの生き様により共感し、共感するだけでなく実行し、実行するだけでなく実現できるのか。それを照らし出していくのが、現時点ではどうやら進化の枝の先っぽあたりにいるらしい、種としてもっとも歴史の浅いわれわれ人類の取り組むべき、本当の使命だろうと思う。


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進化といえば印象深いのは、見てくれ重視の進化によって阿呆にも環境に適応できなくなり絶滅したという、サーベルタイガーだ。そんなおかしな理由で絶滅したというのが本当かどうかは知らないけれど、でも今の人類を見ていると、なるほどそういうこともあるのかなと納得してしまいたくなってくる。きっとタイガーのオスたちだって、途中から「これってそろそろヤバくね?」と気づいていたハズなのだ。けれどもメスのみなさんが考えなしに過剰な要求を繰り返し、オス連中も目先のことしか考えられなかったから、とうとう自滅の道を歩んでしまった。ただし幸いだったのは、それが単なる自滅で終わってくれたことだ。仮にサーベルタイガーが滅んだことで食物連鎖の構造や生態系に重大な変化が訪れたとしても、単に自滅するだけでは飽き足らず地球全土の環境・生命を危険に曝しているド阿呆なわれわれよりは、ずっとマシだろう。


果たして我々の現在のライフスタイルには、大昔の虎のアゴについていた巨大な剣歯を、たくさん抱え込んではいないだろうか。たぶんどんな能天気な人に尋ねたってYESと答えるのではないかとは思うが、では具体的に我々の抱えているモノのうちどれとどれが無価値な剣歯なのか、それが問題だ。いま流行の(?)放射能やCO2はもちろん問題だろうけど、かりにエコ生活への切り替えを急速に実現したとして、そんな表層の問題で片が付くのかどうか。いやそもそも、僕は地球環境とかどうだっていいんだ。何百種類の生命が人間の手によって絶滅しようともそんなものは僕の本当の興味を引きはしない。だが、自分も含めた人類が、本当に意味のある生き方を送ることができるにはどうしたら良いか、それを問題にしていくなかで、我々の世俗的な生活スタイルの見直しも行われなければいけないと思っている。


「地球の表面における変革が水棲動物を陸地にほうり上げ、陸棲動物を水中にほうりこんだとき、新たな前例のないことを遂行し、新しい順応によって自分の種を救うことができたのは、運命に対する用意のできていたものだった。それが以前その種のなかで保守的なもの持続的なものとして秀でたものであったか、あるいはむしろ変り種であり変革的なものであったかどうかは、わからない。彼らは用意をしていた。だからこそ自分の種を救って、新しい発展に進むことができたのだ。それをぼくたちは知っている。だから、用意をしよう」 ――『デミアン』より



ヘッセがこう書き記したとき、作家の頭にあった”地球の表面における変革”とは、おそらく第一次世界大戦や、その前後にヨーロッパを席巻した社会環境の変化やコミュニティの崩壊、新しい価値観の台頭が、挙げられるのだろう。具体的ななにをもって予言の糧としたのかは僕には分からないけれど、しかしより悲惨な大戦争を経てなお半世紀以上も後になってから振り返ってみれば、歴史は決して、小説で予言されていた通りにはならなかった。依然として我々人類は阿呆のままだが、それでも立派に地球上で活動することができており、まだ”用意をしていた者”たちの努力が実を結んだという事例は見当たらない。


かつて海から陸にあがり空へと舞い上がっていったような大胆な生命の進化の過程が、もし人類にも起こるのだとすれば、それはまだやってきていないと言わざるを得ない。きっと、したたかな我々人類にぐうの音を上げさせるには、二度の世界大戦なんかでは実力不足だったのだ。それだけ人類が強靭なタフネスを持っているという事実は、誇っていいと思う。けれどでは、もっとダイナミックな変化が訪れることが決してないとは、とても思えない。そのとき我々は果たして、それ相応の用意が出来ているのだろうか。もしまだ出来ていないのであれば、すぐにでも取り掛からなければならないのではないだろうか。




……湖には、寿命があるという。テレビの向こうの何十億だかの蚊の大群を見て、そのはかない一生に思いを馳せると同時に、もしいつかボウフラの暮らす湖の環境にも終焉が訪れるのだとしたらと考えると、僕はどうしたって感動せざるを得なかった。あのボウフラは、僕たち自身の姿だ。羽化した蚊の築き上げた長大な蚊柱は、僕たちの祖先が残し、僕たち自身もその中に飛び込んで行こうとしているところの、人類の偉大だが滑稽な歴史の束だ。ボウフラは何を思って羽化するのだろう? その問いがずっしりと、心の中に突き刺さったのだった。




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この記事へのコメント

2011年05月30日 01:33
ツイッター経由で、記事読ませていただきました。
ああ、これは良い記事ですね。
生物行動学に興味があり、コンラート・ローレンツとか愛読している身としては、とてもエキサイティングな論でした。
分析や引用、問題提起は申し分ありません。見事な論理整合だと思います。
まずは、この労作に対して、称賛のコメントを送ろうと思ったのです。それは間違いないところです。
ただし。
って書いてしまうと、引かれちゃうかな?でも書かざるを得ないので、書きますね。
以下、続きます。
SIGERU
2011年05月30日 01:34
>僕は地球環境とかどうだっていいんだ。何百種類の生命が人間の手によって絶滅しようともそんなものは僕の本当の興味を引きはしない。だが、自分も含めた人類が、本当に意味のある生き方を送ることができるにはどうしたら良いか、それを問題にしていくなかで、我々の世俗的な生活スタイルの見直しも行われなければいけないと思っている。

地球環境とかどうだっていいとか絶滅は興味をひかないとか、ここまで極論しなくてもいいのでは?
せっかく分析してきたものを、むげに放り出してる印象がするのです。正直、もったいない。
読む人は、おそらくこう思ってしまうのですよ。
「それじゃ、本当に意味のある生き方ってなんだ?」「世俗的な生活スタイルの見直しって?具体的には?」
少なくとも、あの蚊柱が、生という制度の歯車すぎて空しい、というたぐいの結論では、人は納得しないと思います。
生の営みとは、それほど簡単なものではないのです。それは、古今東西の哲学者その他が、論じているとおりです。
だから「本当に意味のある生き方=組織に従属しない、社会的常識とやらに依存しない」なんてレベルではダメですね。

ヒントになりそうなのは。
>大胆な生命の進化の過程が、もし人類にも起こるのだとすれば、それはまだやってきていないと言わざるを得ない。
「人類は神について争ってきたが、しかし、本当の神は、実はまだ現れていないのではないだろうか?」
そう預言した、リルケ「マルテの手記」あたりが、示唆的だという気がします。

とにかく、分析部分はすばらしいので、結論も、それに対応するだけの力強さを望みます。
すばらしい天稟をお持ちだとは思うのです。
だから言います。
頑張って!
おパゲーヌス
2011年05月30日 05:12
>SIGERUさん
こんなしょーもない記事を褒めてくださるのはとてもありがたいので申し訳ないのですが、労作というほど苦労してないww 普段考えていることを吐き出すチャンスと思って、ほぼ思いつき&ノンストップでざっと書き上げただけですので、分析部分がうまくいっているというのは言われてびっくりしています。そんなに伝わる内容だったのか!? なんて。

極論して見せた部分は、言葉選びの問題で済ませたいところ。「本当の興味」が別のところにあると言いたいがために、それなりにちゃんと興味を持っているテーマをあえて放棄するような書きぶりをしてしまいましたが、こういう極端な物言いは去年同人誌を作っていたときにも「よくない!」って指摘された部分でした。次からもうちょっと気を付けてみます。

結論を書いていないのは、そこまで手を出すととても雑談では済まなくなるのと、そもそもまだ僕がそこまで自分の言葉を手にできていないというのと、両方の理由からですね。けれど問題提起だけして結論は放り投げるような論を何度か目にして辟易していた自分が、おんなじことをやっているというのは、情けないです。励ましのお言葉を真摯に受け止めて、自分の言葉で(なるたけ伝わりやすく)アウトプットできる時が来ることに備えて、思索に励んでいこうと思います。どうもありがとうございました。

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