異国迷路のクロワーゼ 第1話「入口」

2011年夏アニメ感想第1弾。今期は週ごとの記事数を増やすのが目標です。



『花咲くいろは』が絶賛放映中のただなかにあって、それとはまたちょっと違った視点から、異世界のような環境に飛び込んで仕事に青春に奮闘する少女を描くアニメが始まった。原作はまったく知らなかったけれど、サトジュンがシリーズ構成を担当しているということで、ほんわかほのぼの系の、それでいて涙を誘う心暖まる世界観が展開されるのではないかと期待していたが、ほぼ期待通りの、しかし予想を大きく上回る好感触の第1話だったのではないだろうか。


『大正野球娘。』以来、近代を舞台にした作品がいつにも増して注目されているような印象があるが、サムライの時代なんかに比べるとなじみの薄い明治・大正期は、ファンタジー作品以上に、舞台設定や美術の質が問われる分野だと思う。だからこそであろう、今作も美術面に大いに力を入れているようで、とくにOP映像などはキャラの動きが少なくても背景美術のスライドショーだけで十二分に鑑賞に堪えるほどの作り込み。もちろんそれは本編でも同様で、作品の一番の華と言っていい湯音ちゃんの着物デザインはもちろん、商店街の風景や店内・室内の描写も小道具のひとつひとつまでこだわっているようだ。もちろん当時の習俗なんて知らないから正当な判断は出来ないが、いかにもリアリティのある、息遣いや匂いまで伝わってきそうな描写力に、ただただ魅入られるばかりだった。


フランス人キャラクター(モブも含めて)の造形が、なんとなく往年のアニメ(世界名作劇場とか)を思い起こさせるのも、19世紀末の欧州という舞台における我々視聴者のイメージにぴたりと符合するように思う。背景美術のリアルさに比べるとこれら人物画のほうはだいぶ和製アニメ的デフォルメ感がある印象で、これも実際の100年前の写真なり映像なりをじっくり観察した経験が無いので分からないが、しかしなんとなく、古臭い印象のキャラクターデザインに妙な心地よさを覚えたり。それが現代的な作画によって描写されているのが、今作の独特の雰囲気に貢献している部分はあるかもしれない。


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さてお話のほうだが、本記事冒頭で『いろは』と今作を比べるような真似をしたのだけれど、しかし両作品には決定的な違いがある。健気な少女が右も左も分からない場所に引っ越して、働くことと生活することが密着した厳しくも楽しい青春を過ごす、という構造はよく似ている(ホントに『クロワーゼ』がそんな話になるかどうかはまだ分からないけれどw)。しかし問題は視点のありかで、『いろは』や他の多くの作品では主人公である少女の視点から馴染みのない作品舞台を眺めることになるのだが、今作の場合は、馴染みのある作品舞台にまるで宇宙人のような異質な主人公が飛び込んでくるところから、物語は動き始める。視点は少女を受け入れるクロード(フィアンセ役というよりは真の主人公だろう)の側にあり、彼らフランス人が未知の存在であるジャポネーゼにアプローチしていくのが、少なくとも第1話で描かれ、またこれからも描かれ続けることになる作品の構図なのではないか。


この、フランス人と日本人のどちらが未知でありどちらが既知であるか、というのは、もちろんセリフや演出を通しても強調されている点ではあるが、我々視聴者の文化的背景も大きく影響を及ぼしているだろう。


我々は日本人であるから、最初は同じ日本人である湯音にこそ、最も大きな共感を寄せるのが自然であるように考えてしまう。けれど物語が始まった直後から、湯音というキャラクターには我々視聴者との間に大きな断絶が存在していることに気づかされる。まず見てくれの問題で、湯音の身に着けている着物はそもそも現代日本の若者にはとんと馴染みのない文化となっている。湯音の初登場シーンにおいて身に着けている煌びやかな衣装は、たしかに美しい・愛らしいとは思うが、しかしこの高度すぎるデザインもはやSFの領域だ。平服に着替えた後も、やはり湯音の着物は何かと目を引く。日常空間で女性が着物を着ている風景にナマで出会った経験の少ない(もしくはまったくない)視聴者には、これから水や埃を相手にすることになる湯音が、エプロン(割烹着)を付けるでもなく着物のまま仕事に取り掛かった様子が新鮮に映ったのではないだろうか。それに加えて、彼女は意思疎通ができない、ということになっていた。これはもう致命的で、見慣れない恰好をして、考えていることを言葉で満足に発信することのできない湯音というキャラクターは、愛玩動物か、もしくは異星人ででもあるかのような、心理的に遠い存在となってしまう。


一方でクロードたちの親しみやすさは好対照だ。自分はヨーロッパには足を踏み入れたこともないし、ましてや19世紀のフランスなんてろくに想像すら出来ないが、それでも、独白も含めてぺらぺらとよくしゃべり、現代人にもよく理解できる思考や感情を持ったクロードとオスカーは、劇が進めば進むほど、視聴者と同じ視線や感覚を共有できる存在として認識される。我々にとって劇中のフランス人たちは、湯音よりもよっぽど理解できるキャラクターなのだ。


第1話の”泣かせどころ”は、これら未知・既知の概念を巧みに操って演出されたものだ。何を考えているか分からない、しかし健気にも一生懸命に努力している湯音は、クロードたち(そして彼らと視線を共有する我々視聴者)にとって、保護の対象でしかなかった。可愛いと言って愛でることはできるし、失敗を責めるなんて気にもなれない、しかしこのまま外国で過ごすよりは絶対に日本で暮らしたほうがいい。そんな不幸な身の上の外国人が、湯音という存在だった。その湯音が、母の形見を潔く差し出したというだけでなく、当時の日本流の信条から、形見の着物を取り戻しにいこうとしたクロードを説得した。そこでは、湯音がちゃんと言葉でもって意見を伝えたという驚き以上に、彼女がそこまで深く物事を考えていたということに、クロードも我々視聴者も驚愕し、心を動かされるのであった。


このときはじめて、湯音は異星人から、ただの人間になった。同じ人間として、対等の立場で、意見を言い合い、頭を下げて、謝罪と約束の言葉を交わす。そこには愛玩動物や奴隷なんかではない、一個の人格としての、湯音がいた。これは湯音というキャラクターが、『異国迷路のクロワーゼ』という作品の主軸としてかっちりとはまり、駆動しはじめた瞬間でもあった。


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母の形見を取り戻そうとしたクロードを湯音が説得したとき、彼女がずいぶん古風な思想信条を語りだしたのは、この作品の底流として描かれ続けるであろう主題を象徴しているようだ。それはきっと、未知なる日本の再発見。既知世界として描かれる近代欧州の視点から、失われた日本の心を見つめ直すこと。湯音の言葉には、それだけの力があった。作り手の魂が込められていた。


湯音ちゃんのかわいい姿を愛でるのは我々視聴者に課せられた至上命令であるとしても(笑)、彼女が背負っている本作品の意義に想いを馳せながらその奮闘劇を楽しむのも、また一興であろう。次回以降も、大いに楽しみにしたい。



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それでは、今回は以上です。


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